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☆- 現代インドネシアの覗き窓 -☆
翻訳 西祥郎 

(2002/08)


[ 第85回 アチェ抗争は草の根戦争に変わりうる ]
国際社会でアチェの名はよく通っている。メッカのベランダと呼ばれているその地域で起こっていることは、諸外国のマスメディアや民間団体の報告の中に頻繁に登場する。だが、国際社会からのさまざまな批判や非難をもってしても、インドネシア政府の姿勢を変えるには至っていない。

その姿勢はアチェ抗争を長引かせ、民衆の傷を一層深いものにしている。抗争の裏にいったいどのような利害が、そしてどんな動機が潜んでいるのだろうか?
ブリュッセルに本部を置くインターナショナル・クライシス・グループは、2001年7月12日に出した「アチェ:軍部はなぜ恒久的平和をもたらそうとしないのか?」と題する41ページのレポートの中で、長引くアチェ抗争と軍部の持つ経済的利益との間に関連性があるとの見解を示している。
ジョージ・ソロスが資金源であるその国際クライシス調査機関は、北アチェ工業団地を例に取り、ほとんどすべての契約に軍が関与している、と述べているのだ。アチェに見られるあの緊張状態の中でインドネシア共和国軍や国家警察は、事業操業に対する保安と個人の生命の保全に絶大な権力を握っている。保安ビジネスがあらゆるセクターを開拓して軍の収入源になっていったのに不思議はない。ジャカルタとアチェの国軍上層部が刻一刻の変化に深い関心を持ち、そして抗争の恒久的終結など想像するさえ困難な理由のひとつはそこにある。
そのようなことは特に目新しくもなく、またインドネシアに限られるものでもない。そんな問題を分析した科学的な記事や書物もたくさんある。要は、天然資源の豊かな地域で起こったコンフリクトは終結に長い時間がかかる傾向にある、ということなのだ。抗争している勢力は現実の状況を自己の経済利益のために利用しようとするのであり、アフリカを例にとれば、ほとんどすべての紛争地域は石油、宝石その他の鉱物といった天然資源を抱えている。

そうだから、オルバ期からメガワティ時代の今日まで、保安ビジネスがアチェ抗争に関わっている人々にとって金脈であることは、すこしも違和感のある話しではない。KONTRAS「暴力犠牲者失踪者のための委員会」アチェ支部の2000年の報告にその具体例を見ることができる。エクソンモービルが2000年を通してその設備保安のために支出しなければならなかった金額は、月額で少なくとも50億ルピア、となっている。バンダアチェにある民間団体は、「軍上層部のためのジャカルタ〜メダン〜ロスマウェ間の交通費、宿泊費、ポケットマネーがそれとは別に支出されている。」とコメントしている。昨年は、国軍が数千人の兵員増を行ったため、その支出は3〜4倍に膨れ上がっているものと推測されている。
昨年の兵力増強は、2000年末から2001年中盤にかけてエスカレートした国軍・国警とGAM(自由アチェ運動)間での武力衝突の結果だ。エクソンモービルもその影響を蒙り、昨年は4ヶ月間にわたって操業停止を決断している。そんな状況下にチランカップは、GAMを分離主義運動と定義してアチェにおける限定的軍事作戦を命令する大統領指令第W/2001号をアブドゥラフマン・ワヒド大統領に発令させることに成功している。
アブドゥラフマンはその作戦における「限定的」という言葉の意味を悟っていなかったのかも知れない。軍事上のコンセプトにそんな用語はなく、ひとたび軍事行動がスタートすれば、あとは自己の論理に従って走り続けるのだ、ということを。


ガス、肥料、製紙、建設産業以外にも、保安サービスビジネスはあらゆるセクターへと蔓延していった。兵卒には街道が資金源となった。不法徴収金がはびこり、公共運送や貨物運送従事者たちはストを繰り返した。それらの現象の根を探っていくなら、「国軍オペレーション予算の7割は国軍自身が自ら資金調達をしなければならない。」という国政の仕組みにたどり着くことを示唆するインターナショナル・クライシス・グループの報告に、その本質が窺がわれないだろうか?政府はその三割を満たす能力しか持たず、軍がその不足分を補おうとすることを政府が承認している限り、逸脱を皆無にすることは期待できない。
アチェの実態はジャングルと変わらず、ジャングルにふさわしい経済活動の場がそこに現出している。公定法規や政府規定はずっと昔から仮死状態であり、問題解決の規範はジャングルの掟にとって替わられている。アチェでは、その手に武器があるかぎり、どのような人間でもあらゆることを行い得る。誘拐、殺人、略奪、大通りでの自動車強奪、すべてが当り前のことなのだ。
「誰の犯行か?」ということに関してGAMと国軍・国警は、捜査よりも非難の応酬に熱心だ。だが2000年初、メダン警察は特殊部隊コマンド兵士二名を別々の事件で逮捕した。逮捕理由は書類なしの自動車をメダンで売り捌いていたことであり、それらの自動車はアチェで強奪されたものだった。
2000年から2001年にかけて、BRI銀行の銀行出納車に対する強盗事件があちこちで起こった。武装集団が路上をアクション映画の舞台に変えたというのに、当局は盗賊のひとりすら掬い取ることができなかった。2000年末発生したBRI銀行出納車に対する凄絶な襲撃では32億ルピアの被害が出ている。ヒューマン・ライツ・ウオッチの分厚い報告書「インドネシア:アチェの戦争、2001年8月」はDOM(軍事作戦地域)時代以来の無法状態を赤裸々に描いている。そして基本的人権違反者が法廷に引き出されたのを耳にしたこともない。稀にあったとしても、トゥンク・バンタキアとサントリたちの虐殺事件のように、主要な黒幕にまで手が届いたことはない。


アチェ抗争は民衆経済を粉砕した。かつては豊かで、アチェ開発のショーケースとして知られたピディ県タンセ郡はぼろぼろになっている。生計の源だったコーヒー園は放置される以外にどうしようもなかったのだ。タンセでは、10,977ヘクタールでコーヒー栽培が見捨てられている。(スランビ・インドネシア、2002年7月24日)
商業セクターも暴力の嵐に吹き飛ばされてしまった。過去三年間で数千軒の家屋、店舗、店舗住宅が炎に呑まれ、武力衝突が役所や公共ファシリティを焼跡に変えた。仲間を殺された報復として、住民の店舗住宅、店、住居などを焼き払うのを治安部隊にやめさせるように、とアムネスティ・インターナショナルが報告書の中でインドネシア政府に迫ったのは最近のことだ。
この戦争のインパクトは、住民の日常生活にますます深く浸透していく。現在約420万人であるアチェ人口の半分以上が困窮生活を送っている、と考えられている。最新情報によれば、ピディ県内陸部のグンパンとマネの二郡で数千人が飢餓に襲われており、かれらは生き延びるために仕方なく、芋やその他の食用にできる植物で露命をつないでいる。(スランビ・インドネシア、2002年7月23日)
幼児や子供の身体が日増しにしわに覆われ、栄養のある食事は夢のまた夢になっている。グンパンとマネでのGAMと国軍・国警による入れ替わり立ち代りの軍事行動によって屋外での労働活動は生命の危険に満ち満ちている状況となり、その二県の住民のほとんどは稼業を営むことができなくなっている。
二年前、保健省アチェ地方事務所長イルハムシャRB博士は「アチェの5歳未満幼児10万人が栄養不全と飢餓浮腫で苦しんでいる。」と述べている。その子供たちの大半は暴力抗争の激しい地域にいるのだ。(ガトラ、2000年11月11日)今その数がもっと増加しているであろうことは、疑う余地もない。
非石油ガス産品の輸出からも同じ状況がもっと明確に汲み取れる。アチェの1988年(原文通り)の非石油ガス産品輸出高は3.36億ドルあったが、1999年には3.25億ドルに減り、その翌年には更に減少して2.70億ドルとなった。ところが2001年にはわずか0.32億ドルしかなくなってしまったのである。これは82%の下落だ。(ハリアン・アナリサ、2002年7月30日)

アチェを平和と秩序を願う人が住むにふさわしくない場所にしている武力抗争のインパクトがそれだ。個人の生命の安全を保証できるものは、そこにはなにもない。地元の政治陰謀、諜報ゲーム、嫉妬、怨恨、ビジネス競争、ありとあらゆるものが死神となる。それが村落部にせよ都市部にせよ、アチェ民衆の背にのしかかっているのだ。


昨年8月のヒューマンライツ・ウオッチ報告は、GAM自身も現場指揮官たちを十分に統率しきっていない、と述べている。ローカル版から全国版メディアに至るまで、GAMが街道で行うスイ−ピングでしばしば生命や財産の被害が発生している、というニュースを報じている。またほかにも、GAMはかれらがナングロ税と呼ぶ徴収金を民衆から必要以上に取り立てている、との非難が上がっている。大勢の事業家がその税を払うのを拒んだために死んだ、との噂も盛んだ。この徴収金は。エクソンモービルから村落住民まで、あらゆるセクターで取り立てられている。
村落部の貧困はGAMにも責任がある、と言われている。州政府や中央政府からの村落開発資金の大半はGAMの手に落ちており、Kodam司令官や州警察長官は「二度と繰り返されてはならない。」との呼びかけを何度も出しているものの、生命の安全が保証されない呼びかけがずっと危険なものであるのは明らかだ。多くの村長が、犯人も動機も不明のまま死んでいるのがそれを証明している。

「民衆のため」を謳い文句にして相争う二勢力は、今や互いを攻撃しあいながらアチェ民衆にその費用を負担させているのだ。現状のロジックの果てに、そのうちジャカルタは民事あるいは軍事の非常時体制を発動するだろう。それは既に一世紀以上もの間、長引く戦争で苦難をなめさせられてきた民衆が、今よりもっとハードな軍事状況に直面することを意味している。
「アチェが一大共同墓地と化すまで、ジャカルタは暴力の輸出を決してやめないだろう。」バンダアチェのNGOプムラカのリーダーであるムハラムはそう言う。アチェ民衆の意識には、DOM時代の「共に苦しみ、共に耐える」という感情が依然として続いている。この感情がそのうちにアチェ抗争を草の根戦争へと変形させるかもしれない。今起こっている抵抗は、抑圧自身の産物なのだ。
そのゆえに、NGO活動家、ウラマ、そしてGAMさえもが、アチェのステータスに関してスエーデンにいるリーダーと異なる意見を持ち始めている。言い換えれば、スエーデン・グループがこれまで独立を要求する強硬派と見られていたのに対し、今アチェで闘っている人々はそんな要求を一切口にしなくなったのだ。
だからアミン・ライス国民協議会議長の、アチェで起こっているのはインドネシア独立初期と同じものだ、という発言はその通りかもしれない。
「当時、町々はオランダに占領されたが、村落部は共和国のテリトリーだった。今のアチェは多分、町々は共和国側だろうが、村落部はGAMのテリトリーだ。」(ハリアン・アナリサ、2002年7月26日)


ソース : 2002年8月5日付けコンパス
2002/08/29(Thr)


[ 第84回 非軍国化と市民社会 ]
一昨年、学生や青年活動家によって堰を切られて以来、インドネシアの民主主義を目指す移行プロセスは、軍の二重機能解消要求(そして更に広義には非軍国化プロセスの要求)と切っても切れない関係にある。国民の社会生活における軍国主義の影響を減らし、解消して行きたいという希望がその要求の中に内包されている。

国民生活の中における軍の活動は、昔から話題が絶えない。オルラ期からオルバ期まで、インドネシアの国民生活の多様な節々に軍の活動は深く根をおろしてきた。同時に軍の持っているものの見方や価値規準も、国民の文化社会システムに浸透している。インドネシア問題専門家ダニエル・レヴ教授は、実際には数十年間にわたって軍がその影響力のもとにインドネシア政府を動かし、国民生活を統制してきた、と語る。
経済分野で、運輸サービスや調達から学校、モール、スーパーマーケットの所有にいたるまで、軍のビジネスは旺盛だ。この経済分野への軍の進出に関して多くの専門家は、市場にひずみを発生させており、経済面における適正な国民生活が実現されていない、と述べている。また別の面では、さまざまな分野における公共的な決定に軍の経済力が影響力を振るうような使われ方がしばしば行われていることも指摘されている。
教育分野で、軍国主義の影響は深く浸透している。創造的な思考を引き出す科学的議論の中で生徒が育つといった環境にはなく、単調な授業の中で先生が教えることを呑み込み、テストではいくつかの選択肢の中から答えを選び出すだけ、といった考え方に従っている。生徒の思考もかれらが着用している制服のように画一化される。
社会と政治の分野で、社会構成員の生き方を決める際の軍の活動は更に根深い。軍人が文民官僚の列に加わっているのは、中央レベルばかりか村落部にまで及んでいる。軍隊式命令行政は下部にある民衆の自主性を次第に殺し、それは上位者への依存に置き換えられて行く。国民の自由も、安定や統一という名にもとづくさまざまな規定で統制される。

政治評論家モフタル・マスウッ博士の、国軍が最初どのようにして非軍事分野に進出していったか、ということに関する解説が、他の多数の政治オブザーバーたちの見解を代表するものであるようだ。
マスウッ博士によれば、軍の非軍事分野への進出現象は軍という機関の自治に対する意識の具現化であり、それは軍存立の初期から目に見えていた。50年代初期以来、軍指導者たちは治安防衛外のことがらにおける軍の関与をオーソライズしうる公的観念を模索していた。第一ステップは、非軍事分野における軍の役割という公的観念レベルの着想へと発展する。1958年12月11日、陸軍総参謀長ナスティオン将軍が国軍アカデミーにおけるスピーチで触れた、後代「中道」として人口に膾炙することになる軍の役割に関する着想をもってこのテーマの推進がはじめられ、国軍指導者たちは内閣、議会、その他の国家機関において軍が官僚や文民政治家と政治権力を分担するというひとつのモデルを発展させていった。

次の重要なステップは、憲法改正という形式での公的合法的な後ろ盾だ、とマスウッ博士は説く。改憲議会が新憲法編成に失敗し、45年憲法への復帰提案すら合意に達し得なかったとき、国軍指導者は1959年7月5日の議会凍結宣言をスカルノ大統領が発するように仕向けた。革命期憲法への復帰は、行政府首班であると同時に国家元首でもある大統領に異常と言えるほど巨大な権限を与え、それは軍事機関を利するふたつの効果を生むことになった。政党外職能グループ(ゴルカル)と軍人が本質である階層代表として、軍将校が議会政治に参加することが合法化され、また行政機構の中に軍将校が進出することが合法化されたことのふたつだ。議会凍結後スカルノ大統領が編成した内閣は非政党内閣であり、実務内閣と呼ばれた。この内閣で軍将校は全37大臣中11大臣の座に就き、非軍事面におけるポートフォリオの位置をはじめて占めることができた。
その後の軍の政治展開における、そしてインドネシア国民の間で一般的にたいへんポピュラーになった二つのコンセプト、「二重機能」と「実務遂行」がそこから誕生する。
二重機能コンセプトは、1950年代末に軍事理論家たちが編み出した「地域戦争」あるいは「国民総力戦」という防衛ドクトリンに端を発する。後に国民総力防衛構想として知られるようになるそのコンセプトは、軍事理論家の言によれば、旧来型の戦争戦略に頼っているだけでは、インドネシア国軍は国の防衛を果たすことはできない、という基本仮説から出ている。ゲリラ戦方式が土台にされ、それゆえに民衆の支援がその戦争方式成功の条件とされた。そのために国民ひとりひとりに対して国家守護の方策の中で関わりを持たせなければならないのだ。いつでも国民が国の守りにつくことを確実にするために民衆は常に指導育成されなければならず、それを目的に特別な「行政メカニズム」が必要とされた。その特別な行政メカニズムはKodam, Kodim, Korem, Koramil, Babinsa という階層構造を持つ軍地域行政管理機構だった。
一方の実務遂行コンセプトは、最初から国の要塞としての機能を担う自立的実行者たる国軍は、政府の舵取りがパンチャシラと45年憲法に盛り込まれた国家目標に合致するよう保証しなければならない、という仮定コンセプトに立脚している。だからこそ軍は政界に関わっていなければならないのだ。
しかしマスウッ博士にせよ、コーネリス・レイ、クスナント・アンゴロ、ダニエル・ダキデェら政治オブザーバーやダニエル・レヴのようなインドネシア学者にせよ、軍が非軍事分野に進出するさいに用いた歴史的正当化理由はすべてが正しいというわけでなく、むしろ多くの点で誤っている、という見解でほぼ全員が一致している。

これまで行われてきた二重機能と実務遂行における軍の評判は、いくつかの基本的弱点が存在していることを示している、とマスウッ博士は説く。まず将校たちは実際にあまり信頼性のある社会変革マネージャーではなかったということだ。この弱点は、民主的な政治駆け引きを行う中での柔軟性と忍耐心の欠如として出現した。その結果、かれらが他の社会集団と一緒に作った機構的な結びつきは脆弱だ。ゴルカルと組んだ結びつきはきわめてひ弱だ。なぜならゴルカルは下層の人々の利益を声にする政党として発足したのではないからだ。
将校たちが責任を全うする際、その弱点は当初進歩に向けてインドネシア国民を導くことを意図した二重機能と実務遂行の約束の実現を失敗に導いた、とマスウッ博士は付け加える。将校たちは汚職を拒むことができなかった。自己を汚職から遠ざけようとしない政治と政府への干渉は、国軍機構内部に危険をもたらすばかりか、一民族としてのインドネシアの存続を危険にさらすことになった。ここ数年の危機は明らかにその汚職現象と関連している。


非軍事分野における軍の活動成果と数十年にわたってシステマチックに植え付けられてきた軍の価値体系は、伝統的封建政府が残し、軍隊式コマンド精神で強化された父主的性格を方向性として持っている、と社会学者イグナス・クレデン博士は語る。もうひとつは、寛容さや差異を評価する姿勢よりも画一性への指向が強まることだ、とも同博士は説く。
「もし文化的差異が政治コンフリクトを発生させるなら、軍はそのような政治コンフリクトを犯罪と見なす方向に傾斜する。そこで起こるのは一種の政治コンフリクト犯罪化プロセスであり、政治コンフリクトは操縦されるべきものではなく力で立ち向かわねばならないものとなる。」
軍のそのような思考体質は大多数の国民の思考環境に沁みこんでいる。社会に発生する多くの出来事の中で、差異への評価はあまり見られず、そこに見られるのは暴力的方法が頻々と前面に押し出されている姿だ。数十年にわたる二重機能と実務遂行実施の悪影響は、国軍自身の内部に起こった軍事開発能力の減退だ、とコーネリス・レイは付け加える。国軍機構は、基本的人権の価値を捧持するといった国際外交の決まりに反しない方法で自己の職務能力を発展させるのに失敗した。軍人ひとりひとりに植え付けられるべき騎士道精神も、まるで跡形もない。軍のプロフェッショナリズムの弱まりが、過去ありあまるほど発生した軍による暴力事件という社会的に過剰なネガティブを生んでいる。

軍ははるか昔から、インドネシアにおける民主主義の発展を妨げていた、とレイは強調する。だからこそ将来のインドネシアは、軍をどう変え、どう扱い、あるいはどのように軍内部に変革を推進していくか、にかかっている。ここにこそ、文民社会が国軍の環境に向かって変化を推進していく重要性があるのだ。軍の変化はいまだわれわれに何物をももたらしていないのだから。いまわれわれが軍の変化から得ているのはふたつの現象だ。つまり軍の体内における大規模な倫理崩壊と国軍機構内部の深刻な分裂の二つである。
「安定的な民主主義をそれらの二現象の上に構築するのは不可能だ。なぜならその二現象が継続する限り、将来の民主化はたいへんネガティブな資産を抱えることになるからだ。倫理崩壊し、分裂しているのが良い軍隊だとわたしは決して思わない。もしその上に民主主義が構築されても、われわれが生き延びられるのはほんの数年であり、そのあと軍は文民政治ライフを再支配するモメンタムをとらえることだろう。」とレイは述べている。
普通以上の公的な圧力と外圧などにさらされているためにそのようなことは起こるはずがない、といかに多くの人が考えようとも、軍がきわめてシリアスなステップを踏むのを正当化する点まで国家社会の統合の脅威が高まったとき、そのような考慮は無視され得るものであることをさまざまな国の歴史は証明している、とレイは説く。さらに、文民優位を支持する軍を飼いならす力が文民にあるということだけで民主主義が確立するわけではない、ともレイは加える。これは強調されるべきことがらだ。というのは、別の作用、別の機構、別の機関、別の場といった条件がつくためであり、それなしには、軍が兵舎へ戻ることで民主的な生活がわれわれに自動的にもたらされるということには決してならないのだから。せいぜい、国がスポンサーとなって軍が作り出した独裁から、社会自身あるいは政党が編成した補助軍と呼ばれるたぐいのものによる独裁へと場所を変えるのが関の山ではないだろうか。「必要とされているのは軍の非軍国化と文民の文民化のダブルプログラムなのだ。」とレイは主張する。
イグナス・クレデンもレイに同調し、政治コンフリクトや社会コンフリクトの解決に抑圧的方法を使うもととなったきわめて深い軍国主義の影響はそれらを当り前のものにし、さらに暴力を伴って拡大した、と語る。「軍がいま政治や文民行政から引き下がっても、政治風土の中に刻み込まれた足跡が5年10年で自動的に変わると期待するのは間違っていることをそれは意味している。変わるためにはもっともっと長い時間が必要だ。」
それゆえ文民政治と文民行政から軍が退くことで非軍国化が成就するというような簡単に解決する問題だと思ってはならない。「民主的生活と文民政治が要求するものに適合するよう、あらゆる政治ビヘイビヤや政治カルチャーを復元していくという気の遠くなるほど遠大な仕事をわれわれは抱えているのだ。」とかれは警告する。

価値観という問題に関して、多様性、意見の相違、許容性などといった民主主義が伝統的に認知し、尊重している基本的な諸価値についてのコンセンサスにわれわれはまだ到達できていない、ということが大きな問題だ、とレイは見る。他方でダニエル・レヴは、文民政治エリートたちも軍の改革と軍国主義の痕跡をシステマチックに消していく戦略を持っていない、と見ている。非軍国化プロセスが順調にそして正しいルートに沿って進展するよう、そのことに真剣に取り組まねばならないというのに。
「文民政治エリートも、インドネシアの政治、社会、経済生活の中に二度と軍を引き込まない、という決意をもたなければならない。」とレイは断言する。


なさねばならないことは何なのか?レイによれば、軍が民主主義に重要な貢献をすることを欲するのなら、われわれはよく注意して軍の体内に二つの重要なことが起こるよう仕向けなければならない。
まずひとつは価値レベルの変化だ。国民総力防衛構想は、インドネシア民族が現在直面している脅威の性格が変化していることから見て、既に時代遅れになっている。そればかりか、このドクトリンは国軍の主たる敵が国民自身であるという仮定の上に築かれたものであるため、変えていかねばならないものだ。
しかしこの価値転換は、ドクトリンに対してのみならず歴史に対してもあてはまる。国軍は合法性の基盤として歴史をどのように使うか、ということを編み出した。軍は自分自身の歴史を創出し、そして軍は自分自身で編成したものであるから文民政府の諸決定に対して独立と自治をもって行動する、と公表した。「歴史の真実をより純粋に、より客観的に読む機会が国民に与えられるよう、歴史をふたたび水面上に浮かび上がらせて説き明かす必要がある。軍がみずからを編成した、というのは本当だろうか?それはきわめて重要な問題だ、とわたしは思う。」とレイは語っている。
重要さの劣らないもうひとつの問題は、組織機構レベルでのラディカルな変化だ。まずkodamからBabinsaにいたるすべての国軍地域行政管理機構を段階的に解消していくことを真剣に考えるべきときがきている。そして文民行政構造の中に存在する軍の組織構造をわれわれは分離できなければならない。ジャカルタの社会政治局から全国各州の社会政治事務所にいたるまで、いやそれどころか国民をスパイし、動員し、弾圧する日本時代のような働きをやめさせて、RWやRTを再機能化しなければならないのだ。
更にこれまでまだあまり関心の払われていないこととして、軍を中心機関として作られた寡頭構造の行政機関をあげておこう。すなわち、国民生活層に軍が入り込むことを合法化しているMaspida, Maspika, Tripika等の存在である。それらは治安コーディネーションというような名目で、重要な一翼を担ってきたものだ。「政治責任の頂点は、国民が直接選んだひとりの政治化の手中にだけある、という政治の決まりを新たに確立させなければならない。」とレイは述べる。
しかし、それらすべの変化は国内政治のふたつの重要なアリーナにおける抜本的変化を条件にしている。市民社会、そして政界、中でも政治エリートレベルのそれだ。
「それなしにわれわれが手にし得るものは、大規模な倫理崩壊を起こした軍、軍内部での深刻な分裂に直面するわれわれ、といったものを内包する政治システムでしかなく、われわれがそこで作り出せるものはアナーキー以外のなにものもない。」とレイは語っている。


ソース : 2000年12月20日付けコンパス
ライター: Rakaryan S
2002/08/26(Mon)


[ 第83回 軍民の新たな関係 ]
インドネシアの軍部と文民の新たな関係についてはいまだにホットな議論の尽きないトピックのひとつであり、特に1998年5月21日のスハルト大統領辞任以降ますます盛んになっている。スハルト体制の崩壊と歩を一にして、インドネシアの政治の舞台における軍の優位も崩壊した。いま現在進行中の独裁制から民主制への移行期に、三十二年間に渡って権力をほしいがままにしてきたオルバ体制の中でのインドネシア国軍の役割に対して少なからぬ批判が向けられている。「国軍二重機能の解消」「兵舎へ帰れ」「外敵の脅威から国を守るツールとしての役割に徹しろ」といった内容に、批判の大半は行き着くのだ。

内外から向けられるそれら国軍への批判の中で、軍は1998年中ごろ、民族としての生活の中での国軍の役割の定義、位置付け、そして実施のリビューを試みた。それは国軍内部改革のひとつの姿ではある。その内部改革には、軍の四つの新たなパラディグマが含まれていた。第一に、国軍が常にフロントにいる必要はない、というポジションとメソードの変更への努力。第二に、国軍は「位置を占める」から「影響を与える」というコンセプトの変更を行う。第三に、国軍は影響の与え方を直接的から間接的なものに変えて行くことを欲する。第四に、国軍は国家と政府の重要決定の中で共同的役割シェアリングを民族の他の構成員と行う用意がある。
とはいえ、注意深くそれを読むなら、内部改革はただの粉飾にすぎず、本質にまで迫るものとは見えない。インドネシア科学院YIPIKA/LIPIが1999年にミザンから出版した「憂愁の軍隊」という、レフォルマシ運動の中での国軍のポジションを調査した書物の中で、上述の軍の内部改革を「遊び半分のレフォルマシ」と呼んでいるのに不思議はない。

軍人のポジション、役割、行動様式などを古いパラディグマから新しいものに変えるのは、手のひらを返すように簡単にはいかないことをわたしたちは認めなければならない。公式教育、講義、軍隊の環境内における研修などを通して吸収してきたさまざまな軍事・政治ドクトリンは、言うまでもなく兵士、下士官から下級・中級・上級将校にいたるまですべての軍人の精神に貼り付き、血肉化している。だから軍人のカルチャーを変えて行くには、長い時間とステップが必要とされる。その決定要因は軍人の側のみならず、法制度、憲法、政治システム、政治エリートや一般大衆の精神環境などという外的環境にもあるのだ。

今現在でも、軍民の新たな関係に関するアイデアは、文民社会政治観察者と軍人層の間だけでなく、軍内部の軍事思想家とフィールド将校との間でさえ論争が展開されている。かつて改革派に分類されたフィールド将校の多くが、国軍内の、特に軍行政管理部の機能に関わる組織上の地位に就くと現状凍結を指向するようになるという事実は、過去「はっきりしない」高級将校に区分された軍内部思想家たちに比べれば興味深いものがある。


[ 軍民関係の定義 ]
インドネシアにおける軍民の新たな関係の分析に入る前に、まず「軍部と文民の関係」を定義しておくのが良いだろう。西洋諸国で一般的なのは、軍は総選挙をへて民主的に選ばれた文民政府に従属するもの、つまり「軍に対する文民の優位」を強調する文民・軍部関係モデルだ。そのモデルは、自由民主主義制度を捧持する発展途上国、中でもイギリスのウエストミンスター制度をさまざまなバリエーションで受け入れている多くの国々も従っている。
とはいえ、インドネシアを含むいくつかの発展途上国で、軍部および軍と事を構えたくない文民層は、その文民・軍部二分法では実際に存在している現実が十分描ききれていない、と感じており、それゆえに「協力」「パートナーシップ」「軍民の調和」などが存在することを前面に押し出している。そのようなモデルにおいて、文民機構との関係の中では、軍部が同列の中の筆頭者という構図が起こりうる。文民パートナーがきわめて弱い場合、その傾向は特に強い。ところが文民機構が十分力を持っていれば、インドネシア国軍の新パラディグマに見られるような、軍からの「役割分担」構想が出てくる。あえて言うなら、軍は文民優位コンセプトに映し出されている軍民の垂直的関係をデモクラシーと見るのでなく、同列関係パターンに傾こうとするのである。
特にインドネシア国軍は、『軍行政管理部一般スタッフのビジョン・使命・戦略』手帳の中で、「文民優位ではなく、大衆優位というコンセプトに正されなければならない。なぜなら45年憲法は、主権は大衆の手にあるという公式をもって大衆優位原理を捧持しているからだ。」と述べており、それは国軍が文民優位という言葉にアレルギーであるのみならず、文民を非軍人と呼び習わす陸軍指揮参謀学校内の見解と軌を一つにしていることを示している。つまりインドネシア民主主義における「文民優位」の本質は大衆優位ということなのだ。

理論上、社会内で軍部に脅威を与える集団の存在、社会内で高まる政治権力を獲得する必要性に対する将校団の欲求、国政に対する軍の干渉チャンスを開く文民リーダーの政治的欠陥などといった外的内的な要因のために、発展途上国において軍は国防面以外でプロポーショナルでない重大な役割を演じる傾向にある。
またノードリンガーが指摘したように、近衛軍人層は、国家と憲法に対する責任の強さから民事問題に介入していく、愛国者的精神と責任感あふれる将校であると自己を規定している。軍が文民から権力を引き継ぐ理由として、「腐敗し、法律に背き、利己的にものごとを行う政府が、憲法に示されている原理に違背した」「文民政府の措置が国益に反した、つまり国家転覆を図る集団を放置して階級間や共同体間コンフリクトが起こるにまかせ、国内の治安を危うくした」「更にそれが政治の無秩序や暴力拡大を推し進め、また低い経済成長、広範な失業、インフレの高騰を生むような政策の採用に至った」「経済面での現代化と改革プログラムの実施に失敗した」などというものが挙げられる。
同時に近衛将校たちは確信をもって、国家を健全な政治経済状況に向けて回復させる、と言明する。高度な愛国者精神を持ち、文民の弱点からは遠く、更に技術と経営面で高い技能を誇るその将校団は、自分たちはそれができる、と思っているのだ。汚職をなくし、国家転覆の根を絶やし、無秩序な政治を統御し、経済成長を起こさせ、インフレを抑え込むのである。かれらは自分たちを国家の救世主と思っている。そしてたいていの場合かれらは、民主的に選ばれた文民内閣に遅かれ早かれ政治権力を委譲するという計画をも明らかにする。
ノードリンガーのこの理論から見ればオルバ時代は、政府を統制するばかりか、体制、政治、経済に大きな野望をふるう支配者型近衛軍に分類できる。オルバ体制は、軍が統制する有力政党ゴルカルとその他の数政党を用意して国民の動員を図った。政治、経済、社会は上からの侵略を受けたのだ。
軍は文民政府の成功失敗を評価できる機関でない、という論理でノードリンガーの近衛理論に対抗することは可能だ。ある文民政府に支持や正当性を与えてよいかどうかを決めるのは国民なのである。多くの議会制民主主義国家で行われている、議会での不信任動議、あるいは議会や大統領に対して国民が正当性に疑念を持つに至った場合に行われる総選挙などを通して、文民政府を瓦解させることは可能なのだ。


[ 古い軍民関係 ]
インドネシアの軍民における新たな関係について議論する場合、古い関係がどうだったかについて触れておくべきだろう。インドネシアの軍民間での役割分担パターン、言い換えれば連携パターンは、独立革命期にはきわめてはっきりしていた。当時の政府行政と社会生活内の秩序付けへの軍の参加がそれを明らかにしている。おまけに、軍部のみならず、文民側にも二重機能パターンが起こっていたのだ。たとえば、政党による民兵組織の編成や、地方の軍行政府の知事あるいは副知事の職に文民が就任するといったことだ。だとしても、軍民の二分化あるいはその両者間での対抗と協力は、少なくともそのころから存在していた。

1949年から1957年までの議会デモクラシーつまりリベラル・デモクラシー期、インドネシアの軍部は完全に文民政府の下に置かれていた。軍の合理化とプロフェッショナルな統合国軍への脱皮がなされたのはその時期だ。しかし「政党内国軍ウイング」と「軍事組織内政党ウイング」の形成が進行したのもその時期である。国軍内部問題への文民政府の干渉が上級・中級将校の深い失望を引き起こし、それがクマル・イドリスらオランダ式教育を受けた軍事プロフェッショナルを巻き込んで行われた1952年10月17日の、砲口を大統領官邸に向けるという半クーデターを招く結果となった。

リベラル・デモクラシーから指導された民主主義(1957年〜1959年)への移行期、軍部は政治経済分野への関与に新風を得た。政治、経済、社会の諸分野に軍が爪を立てる原因となった事件が少なくとも三つある。ひとつはオランダの企業・農園の国有化で、軍は最大の競争相手であるインドネシア共産党PKIの手にそれら資産が渡らないよう、できるかぎり広範にそれら企業を引き継いで行った。二つ目に、政府に国家戦時非常事態SOBを宣言させた地方部での武力叛乱事件の勃発だ。三つ目は、立憲議会が45年憲法に代わる新憲法編成に失敗したこと、並びに「パンチャシラかイスラムか」という国家イデオロギー決定における対立闘争が収束しなかったことだ。
そんな事態の紛糾に、軍の圧力を受けたスカルノ大統領は1959年7月5日、議会凍結を決め、その結果、軍を含む諸社会政治勢力を糾合した内閣と国民評議会が編成された。

その時期、といっても正確には1958年11月1日だが、AHナスティオンがマグラン軍事アカデミー卒業生同窓会で「中道コンセプト」の火種を植えた。インドネシア国軍は、西洋諸国におけるような単なる文民のツールでなく、国家権力を壟断する軍事レジームでなく、社会の中にある諸勢力のひとつとなり、大衆が所有する他の勢力と肩をならべて働く民衆闘争のためのひとつの勢力となる、というのがその骨子だ。この中道コンセプトがインドネシア国軍の二重機能の原理となった。陸軍コマンド参謀学校司令官スワルト准将がこの中道コンセプトを単純実用化し、国防以外の役割、特にPKIと対抗するための軍の社会的役割を正当化するツールに用いた。

スカルノ=国軍=共産党という三角関係の只中にあった1962年〜1965年期、スカルノ大統領を取り込もうとする陸軍と共産党の間に鋭い確執が生まれた。1965年4月2〜9日に開催された陸軍第一次セミナーの成果として、スカルノイズムの濃い「トリ・ウバヤ・サクティ(三つの聖なる誓約)」ドクトリンが出現したのはそんな情勢下だ。
軍事力と社会政治力を持つインドネシア国軍内の実働集団であるインドネシア陸軍のポジションは革命推進力の一部であり、それと同時に革命、民主主義、国家権力のツールとしての陸軍の役割は国家大綱の決定と遂行に参画するものである・・・・と、そのドクトリンの本質が謳われている。そのドクトリンは1966年8月25〜31日にバンドンで開かれた陸軍第二次セミナーにおいて、スカルノ権勢の衰退に歩を合わせ、スカルノイズムつまりオルラ的内容を捨て去るという形で修正された。そのドクトリンを通してインドネシア国軍の二重機能コンセプトがはじめて公式化され、軍は軍事パワーと社会政治パワーのふたつの機能を持つことが明示された。社会政治パワーとしての軍の活動は「イデオロギー、政治、社会、経済、文化、宗教の諸分野」をカバーするのである。

1965年9月30日、軍内部共産党勢力が行ったクーデターの失敗で、スカルノとPKIのパワーは失墜し、ついには消滅した。そのとき陸軍戦略予備軍司令官だったスハルト少将は迅速にPKI勢力を粉砕し、一方でゆっくりとしかし確実にスカルノのパワーを滅ぼして行った。こうして、インドネシア共和国陸軍がインドネシアの政治体制の中での筆頭パワーとして残った。

1966年〜1967年スカルノからスハルトへの政権移行期、インドネシア国軍の政治社会的役割を正当化するための歴史操作が行われた。「インドネシア国軍は民衆の中から生まれ、独立革命期に民衆と共に闘った。」という馴染み深いテーマを、オルバ体制の軍事ドクトリンは内外に向けて強調した。インドネシア国軍はパンチャシラ・イデオロギーに忠節をつくし、45年憲法を捧持するのだ。「チャトゥル・ダルマ・エカ・カルマ(四つの使命、ひとつの運命)」ドクトリンが作られたのはこの時期であり、インドネシア国軍構成メンバー(陸軍、海軍、空軍、警察)がひとつのドクトリンで統合されることをそれは強調している。

二重機能のウエートと正当性を高めるために、1982年、国家治安防衛基本法規に関する法令第20号が制定され、その第26条と28条に国防治安外の国軍の機能が明らかに規定された。更に国軍兵士に関する1988年度第2号法令が発布され、その第6条に、国軍兵士は国防と社会政治勢力としての二重機能の任務を果たすこと、が明示されている。

オルバ期(1966年〜1998年)に、国防治安外の役割において軍はその触手をますます広げた。政治の安定と経済建設の名のもとにインドネシア国軍は、民衆の表現と意見表明の権利に口輪をはめ、基本的人権違反を行い、体制の利益にそぐわない民衆の政治参加を妨げた。
また国軍は、軍民の官僚機構や戦略的と見られる民間機関に至るまで、左翼右翼分子の浸透を特別調査モデルを通して妨げた。国家イデオロギーであるパンチャシラに対しても独自の解釈を施し、国内の行政組織機構に対して影の政府となる軍地域行政管理制度をも打ち立てた。州レベルのkodam、県レベルのkorem、郡レベルのkodim、町レベルのkoramil、村レベルのbabinsaがそれだ。恐怖政治と政治的抑圧を通して、国軍は上からの侵略でもって政治の安定を作り出そうと努めた。国軍は、大臣、省官房局長、知事、県令、外交官から村長、果ては司法や立法府内の要職に軍人を就けた。
国軍、特に陸軍は、80年代中盤以降、単独支配者からスハルト大統領の支配ツールのひとつという方向へと傾斜していったが、触手を広げた権力網は軍の過剰支配を呼び起こした。

スハルト大統領の失脚に歩を合わせた形で、パトロンの没落と共に国軍の威光と権勢も失墜した。1999年4月1日以来、インドネシア国軍の呼称ABRIはTNIという名に戻され、絶え間ない批判にさらされ、国家機構内での役割が不透明になってしまったいま、国軍は悶々のさ中にいる。


[ 軍民の新たな関係 ]
インドネシア国軍が、国民として何を望み、どのような新軍民関係を希望しているか、を理解するために、それらに関する国軍のさまざまな見解を読むのは意義深いことだ。当時の国軍最高司令官ウィラント将軍によれば、防がなければならない三つの発展限界があるそうだ。まず軍の過剰支配つまり行き過ぎで、オルバ期のように軍が諸社会相を支配すること。次に、主観的文民コントロール、つまり議会デモクラシー期や指導されたデモクラシー期にあったような、文民政府の軍に対する客観性を欠く統制。三つ目として、民衆が国軍から離反すること。同時にウィラント将軍は、国軍内部改革の14基本ステップをも公表した。
(1) 21世紀の国軍の政治役割における新たなパラディグマに関する国軍の政治視点と姿勢
(2) 21世紀の国軍の社会政治役割における新たなパラディグマに関する国軍の政治視点と姿勢
(3) 1999年4月1日以後の国家警察のインドネシア国軍からの分離
(4) 中央・地方の社会政治評議会の解消
(5) 社会政治スタッフの軍地域行政管理機構への移動
(6) 社会治安秩序、民衆治安育成、国軍実務スタッフの解散
(7) sospoldam、 babinkardam、 sospolrem、 sospoldimの解散
(8) 実務軍人の退役を通しての消滅
(9) 国会、第一級第二級地方議会の国軍・国警代表議員数削減
(10) 国軍は実際政治に関与しない
(11) ゴルカル党とのオーガナイザー的関係を断ち、全政党との間に等しい距離を取る
(12) 総選挙における国軍の中立に関するコミットメントと実行
(13) 国軍と国軍大家族の間にある関係を変更する
(14) レフォルマシ時代と21世紀における国軍の役割にふさわしいよう、国軍諸ドクトリンのソフトウエアを修正する

それら内部改革14ステップのほとんどすべてに、国軍は既に着手した。いまは諸ドクトリンのソフトウエア修正と、レフォルマシ期にふさわしい社会政治役割のリポジショニングを検討している。社会をスパイし抑圧的な性格を持つ部分は、法制度治安回復委員会、中央や地方の国家安定調整機関、特別調査機関などの諸機関を廃止することでグスドゥル政府が消滅させた。

インドネシア国軍が既に多くの変化を成し遂げたにもかかわらず、将校たちの精神の中には保守主義がこびりついているように見える。近衛将校精神は国軍アイデンティティに密着していることを認めなければならない。たとえば、「軍は、垂直にせよ水平にせよ、民族の統合に最も関心を払う国家機関である。」「軍は、国家、国家イデオロギー、国家機関の一体性を維持しなければならない国の守護者である。」といった見解だ。もっと悪いことには、クスナント・アンゴロ博士が2000年5月10日バンドンで開かれた国際戦略フォーラムで語ったように、将校たちは権力を持つ者、もっとはっきり定義するなら政府、の側に傾く傾向を持っている。加えて、東ティモール、パプア、アチェ、タンジュンプリオク、スマンギTとU、トリサクティ、1996年7月27日事件などの国軍高級将校のからむ人権違反問題での法の確立において、国軍は国民の目にイメージを高める点でいまだに障害を持っているのも明らかだ。おまけに軍の個人や機関が行っている合法非合法ビジネスの問題もある。それは兵士に福祉を与えたり、軍の活動資金を増やすための軍の使命とは無関係であり、メインは一部高級将校の個人利益につながっているものだ。

インドネシア国軍の二重機能、つまり国軍の社会政治役割は、オルバ期のようでないにせよ、続くだろう。2000年5月10日のバンドンでの国際戦略フォーラムにおけるアグス・ウィジョヨ中将の、四つの新たなパラディグマを未来に向けての国軍役割パラディグマのフォーミュラ化に絞り込んだ声明にそれが見られる。それは、「国軍が過去現在未来のいずれにおいて何を行おうとも、それは憲法が規定する国家システムを担う他の民族構成員と協働する、民族の合意に基づく実行機関の機能化と常に関係を持っている。」というものだ。
それは、インドネシア国軍が国防のツールとしての基本任務を担い、治安維持に当たる国家警察を補佐し、市民としての使命を遂行し、世界の秩序や国際外交に参画するための、1982年度第20号法令にとって代わる法令と憲法での規定を必要としていることを意味している。たとえば、国軍が国警を支援するのはいつで、どのくらいの戦力で行うのか、またそれは一時的であって恒久的でない(治安回復に伴って任務が終わる)といったことに関するものだ。

機能、組織、行動面での適合を国軍は継続的に行っている。国軍環境下における教育カリキュラムやドクトリンの修正もそこに含まれる。しかし陸軍が軍地域行政管理機能を廃止するのはきわめて困難であるように見える。過去の陸軍地域行政管理機能が、影の政府と毎回の総選挙におけるゴルカルの勝利として地域の育成に向けられていたとするなら、いまは国の守護、民主主義教育、社会活性化等における青年と社会の育成という役割に変わってきているが、それは陸軍が、地域の政治における「安定と活性を推進する者」という固着観念をいまだに引きずっていることを意味している。軍行政管理制度の中で活動しているフィールド将校たちが享受している快適さを一瞬のうちになくすのは言うまでもなく無理な話しで、それは自立した国家治安機構としての国家警察編成を困難なものにするだろう。組織の面からは、国軍総司令官職が統合参謀総長にという変化が起こるだろう。それは国軍を構成する三軍の統合を推し進め、統合参謀総長に就任する同じ機会をその三軍に与えることだろう。
インドネシア国軍を、外的の脅威から国を守りきる、権威あるプロの軍隊にするのは、容易な仕事ではない。それは巨大な資金と内外の強い意志を必要としている。

「歴史上の役割」「政府が作ったものでなく、オランダと日本が残したプロフェッショナル軍人と志願兵によってできたもの」「文民政府の置物にされるのを望まない」「経営能力と高い規律を誇る」「広い意味での国家の守護者として」「民族発展にたゆまない役割を果たす」「民族統合の使命を負う」といった軍が自ら持っている解釈を見れば、軍に対する文民優位という軍民関係についての西洋的概念が当てはめられるとは期待できない。もっと悪いことには、文民エリート政治家同士の権力争奪闘争が揺れ動く中、軍はその政治闘争の一部を担い、あるいは担わされている。文民政府が誰であろうと、あるいは権力から遠い政党ですら、軍内部に政治ウイングをそして政界に軍部ウイングを強化しようと努力するであろうことを、それは意味しているのだ。軍の文民政府に対する力関係は当然上昇する。特に民族が目指す将来を決める際の役割分担を行う点において。

軍はもちろん実際政治は行わないが、国の政治政策を通して政治に参画する。軍はもちろん、かつてのようにつわ者を差し向けたりはもうしないだろうが、政治の舞台や行政府部内の官僚機構、あるいは国営企業内のポジションに就いて活躍するようにという文民政治エリートからの申し出を待っているのだ。


ソース : 2000年6月28日付けコンパス
ライター: Dr Ikrar Nusa Bhakti インドネシア科学院地域政治調査開発センター調査員
2002/08/23(Fri)


[ 第82回 軍事非常時体制への道程 ]
威光と権力の玉座を失ったばかりのインドネシア共和国軍にとって、アチェはきわめて重要なものとなっている。マルクの場合と同様、政府は州レベル軍事地域行政管理司令部(Kodam)編成要求を呑まざるをえなかった。Kodamを通して国軍は政治の舞台への再登場を試みている。Kodamこそが市民生活に対する軍の関与の扉を開くものだからだ。

ところがマルクの場合とそっくりで、Kodamが開設されはしたものの、軍の約束した治安秩序の安定は単なる化粧としての姿を変えなかった。マルクでは、民事非常時体制発動への軍の要求と度重なる延長にもかかわらず、治安秩序の安定にさしたる変化はもたらされていない。状況をあれほど不透明にしているものは、コンフリクトのウエート自体が持っているのでなく、政治駆け引きの道具としての機能にあるのだ。そして国軍組織の中にも内部コンフリクトがある。高級将校間、部隊間の反目とは別に、諜報部門と実戦部門との対立もある。

インドネシア国軍と国家警察の間の敵対関係までがアチェのような抗争地域に持ち込まれたために、そこでのコンフリクトがますます複雑で不合理なものに化して行くのに不思議はない。ほんの小さな衝突が敵対関係を危険なレベルの戦闘にまで高めることは十分に起こりうる。
二年前起こった、ロスマウェにある軍憲兵隊本部への警察機動旅団の襲撃がその例だ。この事件の発端は、憲兵隊によるある地点でのスイーピングで機動旅団員のバイクが押収されたことにある。白昼に工業都市のどまん中で銃撃戦が展開された。反対の例は昨年、国軍が南アチェ警察署に襲撃をかけたことだが、それらはフィールドで現実に行われていることの実例にすぎない。
北・東・西・南アチェとピディの住民にとって、そのような暴力抗争は各所で起こっている銃撃戦と同じで珍しいものではない。ところがジャカルタにいる国軍国警上層部は常にそれを否定し、かならずGAM自由アチェ運動に結び付けてコメントする。

二年前に治安部隊が行ったロスマウェ近郊のカンダン村急襲はそんな状況を赤裸に物語っている。治安部隊は、バズーカ砲類似兵器GLM弾462発とその他の軍用機材、ならびに陸軍特殊部隊の秘密書類をそこで発見した。それらのすべてはジャミアッ・モスクの天井裏に隠されていたもので、そこがパセ地区におけるGAMの本部であることを窺わせた。
諜報分野においても、情報漏洩がGAMの手に向かうのを対立が促している。国軍と同じように国警も特定GAMグループに達する諜報網を持っていたが、とげとげしい状況が出現すると、国軍にしろ国警にしろ、かれらの動きをGAMが事前に知っていたのはそのせいだ。ところが国軍・国警のトップたちは、そのことをGAMが持つ優秀な通信機材のせいだ、とコメントした。


武力コンフリクトに襲われたほとんどすべての国では、非合法ビジネスと闇市場が生まれ栄える。アチェでもそれは否定のしようがない。たとえば大麻畑だが、それは公職悪徳分子の庇護なくして存続できるものではない。
アチェ・ブサールのインドラプリ郡の住民は、悪徳治安部隊職員のバックなしに大麻栽培などできるものではない、と語る。住民は非合法植物栽培のための元手を持っていないのだ。村落からほど遠いスラワ山の斜面にそれを植え付け、その後は収穫まで毎日近くにいて見てやる必要がある。その間、置いてきた家族に生活費を与えなければならない。
「村の外から資本家が来なければ、わたしらだけでこんな栽培は決してできない。」インドラプリの住民たちはそう言う。インドラプリはアチェの中でも良質大麻の産地のひとつとされている。
諜報界に関連を持つバンダアチェのある民間団体職員は、国軍・国警対立はしばしばこの非合法ビジネスにまで拡大する、と語る。フィールドで起こる銃撃戦が大麻畑問題にからんでいることは頻繁なのだ。

ジャカルタ、バンドン、メダンで国警はGAMの武器調達網を何度も摘発しているが、その中に国軍軍人が関与しなかったものはひとつもない。とはいえ国警にも同じ災いはふりかかる。レンバンの国家警察教育センターの武器庫を、警察職員が破ったことがある。盗まれた武器はアチェに売られた。
軍にしろ警察にしろ、その両者間に反目があることを素直に認める高官はいない。争いが勃発すれば、「任務と権限の解釈が相互で食い違っていた結果だ。」と説明するばかり。そして治安と非合法ビジネスは悪徳分子らの謀略によって関係付けられていく。
政府が軍事予算を満たせるのはその3割しかなく、残る7割は自力で埋めなければならないとするなら、その結果が何であるのかは単純なロジックで理解することができるだろう。


アチェは政治ゲームの中に引きずり込まれている。資金源とされているばかりか、政治駆け引きの道具にもされている。アチェにおける抗争のエスカレーションは、それに関してインドネシアに向けられる国際世論を含めて、メガワティ政府の業績に影響を及ぼすだろう。だからこそアチェは高価なものとなり、コンフリクトの永続性が必要とされるのだ。
2000年から2001年にかけて、インドネシア各地の教会に対して行われた一連の爆破事件が、常にGAMの活動と結び付けて語られたのも不思議はないし、ジャカルタ証券取引所ビルを爆弾が揺るがしたときでさえそうだった。
しかし、ジャカルタ証券取引所ビル爆破の犯人がバンドンとジャカルタで捕まってからは、その問題に変化が起こった。犯人のうちの二人は陸軍戦略コマンド兵士、もう一人は特殊コマンド・テロ対策部隊員だったのだから。
近くは去る6月、ジャカルタのディスコ、エキゾティック前での爆発、同じ日の都内数箇所での爆弾発見、そして7月はじめのチジャントンにあるモール・グラハでの爆破などから、観察者の多くはその方向性を見抜いた。ましてや、チジャントン爆破事件の数日前、SBユドヨノ政治治安調整相は軍事非常時体制発動の必要性に関する政治治安分野閣議の結果を公表しているのだ。更に調整相はGAMをテロリストと断定した。
まるでそれに呼応するがごとく、2002年7月9日のCNNは、オサマ・ビン・ラデンが司令部をアチェに移すことを希望している、とのレポートを報道した。フィリピン諜報機関からの情報に基づくそのレポートは、オサマの側近アイマン・アル・ザワヒリとアルカエダの軍事指導者ムハンマド・アテが2000年6月に一緒にアチェを訪問した際にそう語った、と述べている。
アルカエダ上層部のその二人は、東南アジア地区の連絡員アル・ファルクらに付き添われていたが、そのアル・ファルクは先の7月第一週にインドネシアで逮捕され、キューバのグアンタナモ・キャンプに送られている。アメリカもアルンでエクソンモービルのガス田に利害を持つところから、それらすべては仕組まれたものだ、との批判を出す意図はないとしても、民事非常時体制に関する調整相声明のプロローグとしての重要事件はまだ他にもある。すなわち6月から7月初めまで頻発した学校校舎の焼き払い、南アチェにおけるGAMの待ち伏せで海兵隊員七名が負傷、そしてアチェ・ブサールでの空軍特別部隊員6名の死亡であり、そのクライマックスは、爆破事件後暫くして陸軍参謀総長リャミサルド・リャフドゥ将軍がグラハ・チジャントンを視察した際に発した「この事件は地方のコンフリクトに関係している。」という発言だ。
この陸軍戦略コマンド前司令官の読みが正しかったことは、数日後何の不思議もなく、首都警察が6人のアチェ人を逮捕したことで証明された。そのうちの5名は容疑者とされ、容疑者のひとりの借家から警察は数千発の弾丸、銃火器、手製爆弾、手榴弾を発見した。
この事件へのGAMの関わりを言いたてなくとも、パブリック・オピニオンは問題を持つ武装集団へと向くことだろう。だからアチェで民事にせよ軍事にせよ、非常時体制が発動されるとき、ジャカルタでそれに反対する声は減ることが期待される。
だがその流れは、軍部や警察の上層部にいる何人かの高官たちの好みにフィットしないかも知れない。GAMの関与に関する表明は報道陣の聞き間違いだ、という声明が報道記事を差し戻した事実がそれを証明している。ともあれそれら一連のできごとは、既にテロリズムに対する闘いの一部として描かれており、それは並たいていのものでない結果を招き寄せることに成功した。米国議会がインドネシア国軍に対する姿勢を軟化させたのである。


アチェの民衆自身にとって、この国で起こっているさまざまな暴力行為や爆弾事件は自分たちの暮らしに対するゴダムの槌だ。かれらは隔離されるべきらい病者のようになってしまった。テロリストや分離主義者という焼印のインパクトがそれであり、先日の政治治安調整相の声明がそれを一層強いものにした。
そこでの自己弁護は無駄でしかない。聞いてくれる者は誰もなく、ましてや将来のために闘ってくれる者すらいない。スナヤンに代表者がいないようなものであり、毎日4〜5人のアチェ人が悲惨に殺されていくのを構う人などいない。昨年、アチェの抗争で殺された人は1千6百人。今年は七月までに殺された人数が6百人。その数は悔やみを言う必要があるほどのものではない。なぜなら、ジャワ文化の優勢な環境にひたっている政治エリートは、王のお好みに沿った意見具申と服従の姿勢を前面に押し出すばかりだからだ。王とはつまりインドネシア共和国大統領に具現されている。

メッカの前庭で民衆に加えられている弾圧に関して、インドネシア政府の責任をアチェの民衆が質したところで、意見具申と服従の規準にそぐわない、と受取られるのはそのせいだ。
だから過去のように心理的抑鬱をもたらすアチェ民衆の苦難が長引くのは言わずもがなではあるが、これもAceh-moord(アチェ風殺し方)とオランダ植民地政庁が名付けた種類のアモッを生み出す元なのである。1938年まで、Aceh-moordは傷ついた尊厳に対するアチェ人の復讐として行われた。身を清めた男がレンチョンやパランを持って市場に向かい、出会ったオランダ軍兵士の身体に一言もなく剣先を突き立てるのである。そんなことをすれば別のオランダ軍兵士に射殺されることなど承知の上だ。赤児のころから、かれの母は子守唄替わりに聖戦の話しを語って聞かせた。「異教徒の下で蔑みの生を送るより、殉教者となるがよい。」
いまアチェの市場の雑踏の中で頻繁に起こっている国軍・国警に向けられた襲撃事件は、Aceh-moordの続編なのだ。1999年に起こった中部アチェ県軍事行政管理部諜報司令官と衛兵一名の死もそれに入る。民事あるいは軍事の非常時体制発動に関連してアチェ住民投票情報センターが出した呼びかけは、「アチェ民衆は最悪の事態に備えよ。」というものだった。闘いの道程ははるかに遠く、いばらのとげに満ちている、という歴史の認識を十分に盛り込んだ呼びかけだ。


ソース : 2002年8月5日付けコンパス
2002/08/20(Tue)


[ 第81回 不法移住者は漁村を通る ]
西ヌサ・トゥンガラ州東ロンボッのカヤガン港は、タンジュン・プリオッやタンジュン・ぺラッなどというわが国を代表する港に比べればあまり有名ではない。
庶民が保有する小型船が寄港するだけのトラディショナルな港は、一見それほどの賑わいもなく、厳しい警戒も行われていないようだ。治安職員の監視は特定の時間にだけ行われる。外来者はこの地の暑さにねをあげる。

ところが、漁村に囲まれた狭い埠頭だけをインフラに持つこのカヤガン港が、ある日突然オーストラリア連邦警察ならびにインドネシア国家警察の重点監視ポイントのひとつとなったのだ。オーストラリアを目指す不法移住者と密入国者送り込みシンジケートへの対処を目的に、監視の密度は最近倍増している。
東ロンボッのカヤガン港からは、言うまでもなくオーストラリアへの航海が可能だ。しかし東ヌサ・トゥンガラ州の隣の島であるロテからだと3〜4日で到達できるのに比べ、カヤガン港からは7〜10日と距離も日数もより多くかかる。

実際、地元住民の話しでは、不法移住者問題が喧伝されるようになるはるか以前から、この港は何度もトランジット地点として利用されてきたのだ。ところが、2000年3月、インドネシア国家警察は密入国者送り込み事件を摘発した。オーストラリアへ出発しようとしている中東人二百人を乗せた漁船の出港を阻止したのである。
「あのときカヤガン港で何発も銃声がしたので、もうびっくりしたよ。実は、アラブ人を乗せた正体不明の船が海岸にいたんだそうだ。」ムナガ・バリス村の漁民ムラディは物語る。アラブ人を相手にした『捕物劇』は十分に衝撃的なものだったらしい。アラブ人はその地方に観光に来ているものとみんな思い込んでいた。不法移住者などとは想像もしなかったようだ。「だってアラブ人たちはあっちこっちの漁村を自由に出入りしていたんだから。」とヤヒヤが付け加えた。

東ロンボッ周辺の漁村は、密入国者送り込み活動の潜在的根拠地になっている。住民の多くが、船長、船員あるいは船に対する口利きなどを通して、密入国者送り込みに関与している。一回オーストラリアまで送り届けるだけで漁民の木造船に2億5千万ルピアも支払おう、という不法移住者の代理人の申し出に、よだれを流さない者がどこにいるだろう。船を手放せ、という場合には、かれらは目の前に5百万から1千万ルピアの上乗せ金をちらつかせる。
アリンと地元で呼ばれている東ロンボッ住民のハジ・アブドゥル・サリム51歳は、自分は密入国者送り込みの闇ビジネス組織に関わってしまった、と話してくれた。
あるとき、通称マドゥンと呼ばれているアラブ人がやってきて、船を買いたいと言った。コモド島へのツアービジネスに使うのだ、との話だったが、それは本当ではなかった。ロンボッに住む、アリンの友人でマカッサルの事業家から船を買ったマドゥンは、マタラムのホテルに泊めてあった不法移住者を迎えに行った。
「不法移住に関わったと告発されて、わしゃしまいに13日間警察に留置された。ところが不法移住者がホテルから船に移ったとき、かれらの出発手続のためにロンボッ移民局の役人と警察官数人がそこに立ち会っていたのをわしゃ見てるんだ。」

西ヌサ・トゥンガラ州警察のイマム・ハルヤッナ長官は、そのスキャンダルに関与した職員はひとりもいない、と言下に否定した。「当方職員が関与したというデータは何一つ存在していない。」就任後まだ一年未満の長官はそう述べている。長官によれば、東ロンボッ地方は密入国者送り込み活動の無菌地区であり、住民の関わりはカヤガン海岸に打ち上げられた船から中東人を救出するさいに起こっただけだそうだ。
あの事件以来、西ヌサ・トゥンガラを目指す不法移住者は雪だるま式に増えた。2000年3月から2001年6月までの間に835人がからむ8件の事件が摘発されている。そのうちの一部は、国連難民高等弁務官もしくは移住者のための国際機構に既に委ねられている。

密入国者送り込み活動の激しさは、隣の東ヌサ・トゥンガラ地方に比べて、西ヌサ・トゥンガラの方がはるかに目立っている。その地方の治安が良好であることに加えて、社会が開放的な文化を持ち、そして漁村の多くがムスリム社会であることがその現象の基盤をなしている。不法移住者がその地方を選ぶ際に影響を与えている大きな要素が、同じ宗教であるということだ。「わたしらは客を大切にする。ましてや客が、われらの兄弟、アラブ人であるなら、なおさらのことだ。」と語るアリン。
このようにして西ヌサ・トゥンガラは、オーストラリアへの密入国者送り込み代理人たちのおいしいターゲットとなっている。オーストラリアへの密入国者年間およそ1千人という数字とそれは紛れもなく関連しているのだ。


国際犯罪組織が経済利益を狙って密入国者を組織している、という可能性はないだろうか。西ヌサ・トゥンガラを記者団と共に訪れた国警本部のある中堅幹部は「その通りだ。」と肯定した。中東人やインドネシア人による密入国者送り込みはきわめて活発に行われており、そして利益も大きい。一回の送り込みで、1千万から1億ルピアの金が手に入るのだ。
国家警察幹部は警察職員の関与を否定しない、というより、西ジャワ州警察では悪徳警察職員が取調べを受けている最中だ。西ジャワ州レンバン警察署員アグス・サエフディン36歳は、アブ・クアセイから2千万ルピアを受け取ったことを自白している。

西ヌサ・トゥンガラでは、しかしイマム・ハルヤッナ長官が認めるように、シンジケートのメンバーをまだひとりも捕まえるのに成功しておらず、組織を突き止めるのは困難な状況だ。捕まってマタラムのホテルに収容されているのは、シンジケートの被害者なのである。ほとんどが中東出身の不法移住者は、目的地までの費用としてひとり4千〜7千米ドルを支払っている。

記者の質問に対してイマム長官は、不法移住者に関わる問題とその移動経路を示しただけだった。それによれば、インドネシアへやってくる不法移住者の大半はメダン、ジャカルタ、スラバヤ、デンパサルなどで入国し、オーストラリアへ渡るためにマタラムやクパンを目指す。東部ジャワ州警察のスハルトノ諜報部長は、そのルートは確立されたものであるようだ、と言う。マレーシアから来る者はタンジュンバライまで船を使い、そのあとスマトラの陸路沿いにジャカルタに至る。更にスラバヤを経てバリに渡り、そこから西ヌサ・トゥンガラ、東ヌサ・トゥンガラへと移動する。
密入国者の経路をつきとめるのにそれほど困難はないものの、現場要員不足と船の不足が予防措置に対する意欲をそいでいる。「われわれの海はあまりにも広く、一方密入国者は人のいない海岸を選んで上陸し、そこからバスを使って移動する。密入国シンジケートは、ある場所から次の場所への移動をブロークン・チェーン方式で行う。つまりかれらはお互いに仲間を知らないのだ。」と語るスハルトノ部長。
ともあれ東ジャワ州警察は、密入国活動を行っているシンジケートメンバーの名前を洗い出すのに成功した。その情報は、逮捕され、シトゥボンドに収容されている密入国者から得られたものだ。パキスタン人ザザッ・アンワル、インドネシア人スパルディ・リドワン、ダト・ヘリ、マフムド、アルベルトゥス。しかし有力な物的証拠がないことから、かれらを逮捕・留置できる保証はない、とスハルトノ部長は言う。「おまけにインドネシアの法律は密入国者送り込みを規制していないのだから。」

東ジャワにおける四つの不法移住者事件で、地元警察と移民局はたいへんな目にあった。国連難民高等弁務官と移住者のための国際機構からの認定を待つ間、最終的にその二つの機関の負担となる食費・宿泊費が2千万ルピアに達したためだ。
きっと素朴な疑問が湧いてくるだろう。不法移住者がその目的地を目指せるよう、なんで釈放してやらないのだろうか、と。
スラバヤの海軍はそれを行ったことがある。沖合いで不法移住者の船を検問したあと、目的地に向かうことができるようにすぐ解放したのだ。そればかりか、航海中十分なだけの食糧と軽油燃料まで与えてやった。スラバヤ海軍基地のある将校は「ジャワ海で不法移民船を検問したとき、拘束すると面倒なことになる、と思った。手のかかる問題になるだろう。かれらをどこに住まわせ、誰が食わせてやるのか、という問題だよ。」と語っている。
それに関してスハルトノは、「それらの費用は東ジャワ州警察が負担することになる。」と言う。

バリ州警察長官の言葉はその正反対だ。バリ州警察のスティアワン長官によれば、バリ州警察は不法移住者取り扱い経費として、国警本部から3千6百万ルピアの援助を受けているそうだ。長官はその資金の出所がオーストラリア警察であることを知っている。「オーストラリア連邦警察は、不法移住者の対応について、確かに国警と協力を行っている。バリ州警察は不法移民の隠れ家や移動経路に対して、その資金で積極的に対策を講じており、ホテルへの検問さえ辞さない。当方の積極的な対応で、不法移住者はバリにいたたまれずに逃げ出している。バリに不法移住者事件はないことを強調しておく。」との長官の談。
地理的に見れば、バリはオーストラリアへ向かう不法移住者の通り道であるはずだが、かれらはその経路を通りづらいと感じているようであり、それがバリ警察に対する印象を、西ヌサ・トゥンガラ警察や東ジャワ警察とは異なるものにしているようだ。
ならば、不法移住者問題は州によって違っているのだろうか?この問題は他の州ではきわめてややこしいというのに、バリではどうしてそうでないのだろう?
われわれは、スラバヤ海軍がしたように、オーストラリアへ行きたいかれらに「どうぞ」と言ってやりつつ、移住者問題をもっと単純化しようとどうしてしないのだろうか。


ソース : 2002年1月21日付けコンパス
ライター: Jean Rizal Layuck
2002/08/17(Sat)


[ 第80回 ムラユ型大統領 ]
もしマハティール・モハマッドがスマトラに生まれ、6回大統領に選ばれていれば、インドネシアのイメージはもっと違うものになっていただろう。マハティールはムラユの価値観の中で育ったムラユ人間だ。ムラユとは海洋と通商と王国なのである。ムラユの文化遺産や歴史はジャワに次いで永く豊富だ。そんなムラユ文化は、独立自尊、プラグマチック、移動的、技術重視、そして競争を当たり前と見なす精神をその民衆の中に培った。そのような性格はもちろんムラユに限ったものではなく、海洋に生活基盤を置く社会、つまりわれわれがふだん海岸部社会と呼んでいるところの人々に共通する性格であるようだ。
ジャワ=バリ内陸部の伝統文化で育ったスカルノが、海洋畑作文化の子であるハッタ、シャフリル、タン・マラカらとの間にしばしば不調和を見せたのはそのせいだ。人は幼い時期から社会が植え付けた価値体系をわがものとする。それは集団深層意識として意識的行為を支える基盤となるが、それは密かに作用し、またとっさの際に出現する。

スカルノとハッタの分裂は海洋文化と農耕文化の対立だ。インドネシアには別に食料採集文化(狩猟採取)や畑作文化(溜池乾燥農耕)などの変種もあるが、優勢な文化種はやはり海洋と水田だろう。水田文化の基本性格は土地に強大な役割を持たせていることで、土地を生産の基盤とし、土地を開墾して水田にするための多量の労働力を持ち、そして地元との強い精神的結びつきを求める地域意識などを特徴としている。その行き着く先には、大規模な統制(マネージメント、法律)の生育が待っている。好むと好まざるとにかかわらず、そのような社会には強力な中央集権が生まれるのは当然だ、というよりそれが必要とされるのである。そうでなければ、水利や一定地域に溢れかえる住民の統制など、とてもやりおおせるものではない。
水田社会の文化は、中国大陸、古代エジプト、メソポタミア、北部インドをはじめ世界中のどの民族のものとも似たりよったりだ。つまり例えて言えば、スカルノは「壮大な」ナイル、ユーフラテス、黄河、ガンジス文化の背にまたがり、一方ハッタは「栄光の」古代ギリシャ文化の背に乗っていた。スカルノはガトッ・カチャを仕立て上げ、ハッタは「ギリシャ思念の世界」に没頭していた。スカルノが堂々のモニュメントで民族のイメージを築き上げていたとき、ハッタは村落共同組合の世話を焼いていた。

インドネシアはどのように統率していけば良いのだろう?マレーシアの独立は1957年で、インドネシアは1945年に独立しているというのに、マレーシアの一人当たり国民所得はインドネシアをしのいでいる。1960年代にマレーシアはインドネシアに教員援助の要請をしたが、いまやこのお隣さんは自国の大学教育をインドネシアにプロモートしている。このムラユ国は古来からの海洋文化の伝統に則って、ムラユ式国家経営を行っている。西洋的思考様式を基盤とする現代化に対して、どうやら水田文化思考よりは海洋文化思考のほうが接近が容易なようだ。中国、東南アジア諸国、インド、エジプト、イラクなどの水田文化民族が直面している問題の根はきっとそこにあるに違いない。


芸術に関するシンポジウムで、スマトラのある芸術評論家が、あたかも自分の隣人のことを話すように雄弁に且つ気負いもなくピカソの世界を語っていたが、スタルジがプルウォレジョに生まれていたら、あのような詩人の境地には達していなかったかもしれない。ミナン人でメダンに住んだインドネシア詩界の改革者ハイリル・アンワルも、「穏やかな湖を去って」西洋との遅れを取り戻そうと声高に叫ぶ北スマトラはナタル生まれのスタン・タクディル・アリシャバナも、海岸部の人アファンディやスマトラ生まれのルスリにしてもそうだろう。
ムラユ世界は、西洋的現代思考の世界に軽々と入っていく。それどころか、ムラユ人間マハティール・モハマッドはグローバルな競争の只中で自己の尊厳を高々と示す。プラグマチックで移動性高く、独立自尊、プロフェッショナル的な集団深層意識によって、ムラユ指導者は現代文化への適応にさしたる負担を被ってはいない。コンフリクトと競争、個人の能力と自由、高い適応性、それらのすべてが現代社会に要求されている精神に賦与されたものなのだ。そして、それらは古くからの伝統に従って血肉と化している。

水田世界は空間に縛られた世界だ。なぜなら、農耕地が生存の絶対条件なのだから。土着色は容易には消えない。適応力は鈍重であり、新しいものへの評価は常に慎重だ。空間から離れることはできず、空間を移転させることでしか移ることはできない。適応ではなく摂取なのだ。外からやってくるすべてのもの、未知のもの、新しいものは地元文化の中に呑み込まれて行く。水田民族の歴史は、どこであれ、それと大差ない特徴を見せている。
すべてのコンフリクトは調和の中で終わる。相手を負かさない勝利。所有のない豊かさ、そして統治をしない権力。物質世界よりも内面世界の方が重視される。そのような集団深層意識は現代化の中でコンフリクトに直面せざるをえない。

もしハッタが大統領でスカルノが副大統領だったら、この民族は違った歴史を歩んだことだろう。だが、ハッタとマハティールは同じではない。マハティールは自分自身の文化環境にいるのである。集団深層意識は同じ社会集団には整合的に作用するが、ハッタやシャフリルは水田文化の民衆に語りかけねばならないのだ。スカルノやブン・トモなら自分の文化環境の中でそれができる。海洋深層意識は水田深層意識にスピーチしなければならないのである。
深層意識に培われた理想価値体系は社会の伝統を通じて伝達される。知性のある指導者にとって、意識的にその理想体系を抑圧することは可能だろう。しかし生活上の価値を社会からしか得たことのない人々はそうはいくまい。知性的指導者にとって、ジャワ人がムラユ的思考様式を持ってみたり、あるいはムラユ人がその逆をすることもできないことではないにせよ、そのような指導者は「ジャワじゃなくなった」「ムラユじゃなくなった」と集団深層意識だけの民衆から言われることだろう。

現代化の過程には、多分「ムラユ型指導者」が必要とされている。そして、出身種族がどこであろうと、そんな指導者はこの社会の中でさまざまな理想型思考様式と直面しなければならない。この社会全般に渡る画一的な現代化の促進は、きっと達成不能にちがいない。多面的思考様式の社会では、多様な文化ストラテジーが用いられなければならない。真髄は同一であっても、言い方は変えていかねばならないのである。各社会集団は、指導者の問題に関連してその理想型文化環境により注意を払うだろうから。


ソース : 2001年8月28日付けコンパス
ライター: Jakob Sumardjo     文化人
2002/08/14(Wed)


[ 第79回 インドネシアはマレーシアから学ぶ必要がある ]
1997年7月にクライシスがタイを揺さぶり始めたとき、インドネシアがクライシスに襲われることはないだろう、と多くの人は思った。インドネシアの経済基盤は強固だ、と誰もが考えていたのだ。IMFや世銀すらそうだったし、1997年7月に東京で会合を開いたCGIですらそうだった。
ところがインドネシアはついにクライシスに襲われ、1999年、プライス・ウオーターハウス・クーパーズは、アジアの国々の中でインドネシアの経済回復がもっとも時間がかかるだろう、と予測した。他の国々は二三年で回復するだろうが、インドネシアだけは五年以上かかるだろう、と言うのだ。台湾などは一年あれば十分回復する、と言われた。
この予測は言うまでもなく経済面だけをとらえてのものであり、経済回復の足を引っ張る様々な出来事は、前もって計算できないために斟酌されていない。たとえば、あちこちの地方で発生した社会暴力抗争や、今現在いまだに不透明な政治状況などといったことがらがそれにあたるが、もしそれらを勘定に含めるなら、予測される回復年数はもっと長いものになるだろう。ふたを開けてみれば、インドネシアのクライシスがもっともひどかった。他の国ではせいぜい50〜100%で済んだのに、ルピアの価値は350〜400%も下落してしまった。どうしてこんなことになったのだろうか?

これまでアジアの国々におけるクライシス発生をきわめて批判的に見ていたマレーシアのマハティル・モハマド首相のスピーチやインタビューが集大成され、最近「カレンシー・ターモイル」という書物になって出版された。その書物を読めば、アジア諸国のクライシスは避け得るものでなかった、というマハティルの印象を目のあたりにすることができる。インドネシアを含むアジア諸国の政府がクライシスに対処する力を持っていなかったことを、かれは弁護している。1998年5月6日のタイム誌とのインタビューの中でマハティルは、「公正でないことが今ここで起こっている、とわたしは思う。この地域の国々は四十年以上もの間、国造りに努めてきた。ところがわずか二ヶ月の間に、通貨価値の暴落によって、それらの国々は貧困国に滑り落ちて行った。インドネシアでは、労働者二千万人が職を失ってしまった。」と述べている。
マハティルはさらに、「確かにそれらの国々には汚職、ネポティズム、クロニイズムがあり、クライシス発生の原因として非難されているが、アセアン諸国は自分なりのやり方で成長発展を可能にし、確実に成長してきた。アセアン諸国のような経済成長を実現した国がどれほどあっただろうか?なのにどうして他の国々が非難されず、アセアン諸国が非難されるのか?」と述べ、またこの書物の別の個所でマハティルは、この地域の国々は、かれが言うところの反倫理的な金融ビジネスの犠牲となった、と記している。外国の巨大資本所有者が、その資金能力を使ってそれらの国々の通貨をおもちゃにしたために、通貨と株が暴落した。かれらは価格が安いときに通貨と株を買いあさり、価格が上がったときに売り払ったのだ。そのときの金融ビジネスのボリュームは、世界の物品・サービス取引高の20倍に達し、売買リターンは年間に直して35%に上った。世界の物品通商はWTOが統制しているというのに、もっと巨額な金融ビジネスは野放しであり、おまけに税金さえかかっていない。

かれらは汗水垂らすこともなしに資産を何倍にも増やし、一方この地域の国々は三十年以上汗を流してきたというのに、突然貧困に逆戻りさせられた。これはすべて、自由通商原理として今まで紹介されてきたことがらの破廉恥な逸脱行為である、とマハティルは見る。だから自由市場や金融ビジネスも、すべての関係者に利益をもたらす方向で統制されなければならないのだ。どうしてそのようなことが起こり得たのだろうか?インドネシアがどうしていまのような状態になってしまったのか、ということを考えるにあたって、マハティルが語るマレーシアのケースをわたしたちみんなの学ぶべき材料にする必要があるのではないだろうか。


三十年前のマレーシアの二大主要産品はゴムと錫だった。その二産品は、マレーシアの意志の届かないところで、世界のルールに従って取引されていた。その二産品のみに頼っていては駄目だ、と悟ったマレーシアは、工業化プログラムに取り掛かった。
自力による工業化能力に欠けていること、工業産品の市場や販売ネットワークを持っていないことなどを悟っていたマレーシアは、税の簡素化をはじめとするさまざまな恩典を与えることを代償に、外国企業の力を借りることに踏み切った。国民に職を与える必要性は、それによって満たされた。三十年後の成果は目を見張らせるものだった。マレーシアの工業製品輸出高は8百億米ドルに達し、総輸出の8割を占めている。国民の就業も期待した結果が得られ、それどころか、おまけに人手不足にすらなっている。
マレーシア国民は、工業化時代に突入して自国の需要をまかなう能力を既に身につけたのだ。1968年から1997年まで、マレーシアは年平均8%の経済成長と3.5%のインフレ率を達成した。1970年の平均個人所得だった1千6百米ドルは、1997年には5千米ドル近くにまで達した。
外貨準備高は四五か月分の輸入をまかなうに十分な額であり、国民貯蓄はGNPの38%になった。銀行金利は8〜9%で、預金者にも借入者にも妥当な利率だ。マレーシアはそれ以外にも優れたインフラを有し、民間業界もよく発展している。個人法人への税金が引き下げられても、国庫収入は毎年10%増加した。クライシス前の最後の四年間、政府会計は黒字になっていたのである。対外債務も金額は小さく、たいていの建設プロジェクトは国内資金でまかなわれていた。そんな経済状態だったからこそ、IMFをはじめ諸団体はマレーシアに賞賛を送ることをためらわなかった。

そのような状況のさなかにクライシスが訪れ、マレーシア・リンギットは1米ドル2.5から4.0へと6割下降した。マレーシアのGNPが一千億米ドルとすれば、為替ダウンで4百億米ドルに減少してしまったことになる。一方資本市場では異常な暴落が起こり、9千億リンギットから4千億リンギットへと低下してしまった。クライシス前の9千億リンギットは3千6百億米ドル相当だったのに、クライシス後の4千億リンギットはわずか1千億米ドルにしか相当しない。こうして、2千6百億米ドルという大損害が引き起こされ、これにGNPの減少分を加えたマレーシアの損失は3千6百億米ドルにものぼった。
インドネシアでこのような計算をしたら、いったいどのような結果が出るだろうか?考えただけでも背筋が寒い。悪いのは誰か?そしてこの先どうなるのだろうか?

アジアの国々の政府と実業界が悪者にされた。だが、あらゆる災いの源泉となった通貨と株の暴落はかれらのせいではない。それがさらに続けて、大規模な失業、異常な貧困化プロセス、社会・政治・経済の不安定化を引き起こしたのだ。もしもその成果が自国の経済を崩壊させるだけであることを知っていたら、それらの国々は「規制緩和」「自由化」「グローバリゼーション」などといったお題目を受け入れていただろうか?
クライシスに支払わされたコストが7千兆ルピアに達するというのに、その苦い経験からいまだに目覚めようとしない現状を前にして、わたしたちはそのような疑問を真剣に熟慮しなければならない、というのがわたしの結論だ。


わたしたちを襲っているクライシスは軽いものではなく、とても重くて複雑に錯綜したものなのだ。上にあげた壮麗な数字は、そのことをわたしたちに鞭打つものとなってもらいたい。誰がこの国を統治しようとも、その錯綜した状況に直面するのを避けることはできないだろう。
インドネシアに比べれば、マレーシアは好運だ。このお隣さんはインドネシアに比べて政治的安定度はより高く、社会抗争の障害はより小さく、経済ファンダメンタルはより強固だ。だがそれらのすべては、「たまたま」などと呼べるものでは決してない。マレーシア政府は多くのことがら、特にクライシスへの対応、グローバリゼーション問題、国内の政治的障害などに対して、明確で厳格な姿勢を示していることを素直に認めなければならない。それ以外にもマレーシアは、社会保障制度を発展させながら優れた国民貯蓄制度を打ち建てている。おまけにハジ資金のような宗教的資金の活用についても、インドネシアより進んでいる。マレーシアのハジ貯金は国家開発投資に回されて国家建設に一役買っている。その資金はインドネシアへも投資されて入ってきているのだ。

インドネシアはどうだろう?さまざまな社会政治問題の安定化と秩序回復はいまだに出来ていない。地方自治、各地で起こっている社会抗争、民族分裂の脅威から民生における政党主義や憲法問題のどれをとってもいまだに躊躇の連続だ。
そのシンプルな図式をマレーシアと比べるなら、実際にクライシスからの回復を妨げている多くのことがらはわたしたち自身に由来しているのだ、という自覚がわたしたちの間に生まれるべきだ。わたしたち自身同士がどうして抗争し続けなければならないのだろう?わたしたちはどうしてマレーシアのようにできないのだろう?「なぜ、インドネシアがこうなってしまったのか?」という問いに対する答えがそれだ。


ソース : 2002年5月23日付けコンパス
ライター: Sulastomo 「まっすぐな道」運動コーディネータ
2002/08/10(Sat)


[ 第78回 「機械」と規律ある社会 ]
シンガポールの人々の規律の高さを見て、われわれの社会がすぐにあんなふうになるだろうかとたいていの人は疑問を抱く。第一の問題は、各家庭や学校教育の中で規律がまだその一部になっていないということであり、次いで社会全般にまだ規律が形成されていないというのに、レフォルマシが行き過ぎた自由病を招いてしまった。
無法状態は、社会構成員の規律ある行為が形成されていないのに、その構成員が自由気ままが許されると考える社会の副産物だそうだが、無法状態の中では、法は敗退する。法がいつも負けてばかりでは、カオスが渦巻く。われわれは、その実例をいまわれわれ自身の社会で目にしているのだ。

幼児期から家庭や学校でしつけられる規律の問題を比べてみよう。規律に慣れた子は、学校に遅刻したり、宿題をしなかったり、校則を破ったりすると気持ち悪さを感じる。この気持ち悪いという習慣が大人になっても維持される。一方、子供の頃から規律をしつけられなかった子供は、その行為が規律のないものであっても、何も感じない。学校、特に小学校の選択が、将来規律ある大人になるような子供を育てるための重要な要素だ、と多くの人が考えている理由がそこにある。
学校へ行かない大衆に社会規律を持たせるには数世代かかる、と専門家は言う。学校へ行っているわが大衆が、みんな規律を持っているわけでもない。なぜなら、すべての学校で規律がしつけられているわけではないからだ。もし「今からでも始めよう。」と言ったところで、その数世代を待つためのコストを国が背負うのはのんびりしすぎだ。どうしてかと言えば、規律の低さは国民が産み出す業績を低いものにするためである。頻繁な遅刻や高い欠勤率のために実効労働時間は低下し、交通の混乱や学校のサボりも多発し、こうして社会生産性の一層の下降に行き着く。


シンガポール市民も、はじめから全員が高い規律を有していたのでないことはわれわれと同じだ。しかし、民衆が規律を持つようになるまで、シンガポールが永く待つ必要はなかった。法のコミットメントを確立させたのだ。市民に破ってはいけない法やきまりを教え、手始めにゴミを散らかした子供の親に掃除させるという罰を与えた。最初はすべての市民が規律を持っていたわけではないが、法は牙を抜かれていなかったことから、ついには社会規律が形成された。『法は張子のトラではない』ということが役人や市民に与えた畏怖が、歪んでいた社会規律を正したのは明らかだ。
1984年以来シンガポール市民が利用するようになったMRTで、市民の規律形成がどのように進んだか見てみよう。まず、切符を買うのに並ばねばならず、今でもかれらは整然と並んでいる。そして職員の監視もなく整然と列車に乗る。監視されなくとも、切符を買わずに乗車しようと誰もしないのは、もし検札があったときに法が牙をむくことを知っているからだ。しゃがんだり、飲食や唾棄、ゴミの散らかし、ましてや喫煙。車内だけではなく、場所がどこであっても同じなのだ。

このように秩序立った社会は民族の生産性を高める。専門化が言うには「規律は精神成熟の一部分なり。」とか。民族の精神性は規律を持つことで成熟する。規律は暮らしの中のすべての問題を解決するための受け皿だ。規律のある人間は、生活上での三つの基本価値を背負っている。つまり、責任を負う、真理を捧持する、苦労を先にする、の三つだ。
その三つの価値を背負おうとしないなら、秩序ある生産性の高い社会が形成されるとは考えにくい。規律ある暮らしをしなかった大統領や王たちが、たいていついには没落して行ったという話しはよく聞かされている。
教育的見地からは、鉄の腕の規律というのは決して健全なものではない。だが、規律を確立できなかった大人にとっては違う。
公共サービスを与えるいろいろな場所に「機械」を導入したシステムを用い、街の隅々には監視カメラを置き、全霊を込めた法のコミットメントでシンガポールは規律ある社会の建設を始めた。規律ある社会の枠組みに市民が慣れてくると、それを維持するための社会的な規律への服従精神が形成された。

どこであろうと、入り口では切符を持たねばならない検札機システムや、出口での機械を使った切符の再チェックなどが、大衆に規律の訓練を施すのに役立った。それと同時に、機械を使わない場合に起こりうるずるい職員の切符の再販や切符を買わずにチップを渡して中に入る乗客などが引き起こす国庫の水漏れをコントロールする役割もこの方法は果たすことができる。銀行強盗に対するのと同じ罰がスリにも与えられるのだといった恐怖は、まだ規律を持たない社会を抑制するための法の鉄の腕だ。シンガポールが世界一安全な暮らしができる場所になったのも、それが原因のひとつだろう。
大都市における経験は、たいてい法の鉄の腕が社会規律を形成することを教えている。バン・アリがジャカルタ都知事だった当時、ゴミを散らかした者に対する罰金がパンチャシラに違背すると評価された。われわれは今や、なんでもかんでも「おれの勝手」と考える都市世代を抱える羽目に陥っている。ゴミを散らかすだけではない。道路の横断、順番待ち行列、運転マナーなどいろいろな面に公共の利益を害する好き勝手が現われている。

規律のない個人と公共サービスが、自覚もなく無駄に使い果たされていく時間、エネルギー、費用などの負担をどのくらい社会に負わせているだろうか。移動に費やされる時間、規律を持たない人々の運転が生み出す交通渋滞で空費される燃料。勤労のためのエネルギーの多くは通勤時に使い果たされてしまう。社会生産性はこうして低下し、ただでさえ小さい社会収益はますますやせ細っていく。


われわれは、今こそミクロ社会レベルでのソシアル・エンジニアリングを行うときだ。都市部における規律社会の形成からそれは着手される。MRT風な機械システムを、そんな『機械』を用いたシステムをすべての公共サービスに適用する能力はわれわれにある。あとは政府がそれをスタートさせる意志を持っているかどうかということだけだ。

すべての学校で規律を持たせる教育を推進させる一方、全公共サービスに『機械』とコンピュータ化を持ち込んで、これまですべてが規律に従順とは言えなかった社会に秩序を確立させることができるはずだ。ただし、そこにはひとつの大きな条件がある。法に牙を持たせねばならない。いや、その必要があるという以上に、相手が何者かを区別しないでかみつく勇気を持たせなければならないということなのだ。


ソース : 2001年1月27日付けコンパス
ライター: Handrawan Nadesul  医師
2002/08/08(Thr)


[ 第77回 食材としての虫 ]
しばらく前に、さまざまな虫の料理を出すレストランの表に列をなしているタイの人々の様子を、ある民間テレビ局が放映していた。その食べ物はたいへんよく売れており、小皿に載ったいろいろな虫を買いたいがために人々は列に並ぶのをいとわないくらいだ。実は、インドネシアをはじめ他の諸国でも、虫は食材として利用されている。もちろん虫の種類は決まっており、また調理法も知っていなければならないのは言うまでもないことだ。

熱帯という環境は何千種もの虫が発生するのを促し、その中の多様な種類が食用に供せられている。シロアリやバッタなどは、一年の特定の時期に膨大な数が自然界に姿を現す。インドネシアの農業地帯では、ほとんど毎年バッタを主とする何千匹もの害虫に襲われて、稲やその他の穀物を食い荒らされるという被害が出ている。そのように大量に出現する虫は容易に捕獲でき、調理したり保存食にしたりできる。一方、コウロギや甲虫の仲間は、食材の入手が困難になる乾季の間、いつでも捕獲することができる。


[ 虫の栄養価 ]
アフリカやアジアの一部地域の住民にとって、幼虫や成虫を食べるのはたいへん意義深い栄養補給になっている。欧米にも食用目的での昆虫捕獲はあるが、ライフスタイル的な意味が大きい。先進国の人々は自由でワイルドな自然の中のライフスタイルを好み、その影響は食べ物にも及ぶ。虫はかれらのお気に入りの食べ物なのだ。かれらの社会では、本やレシピ、あるいはインターネットサイトで、どのように調理して食べ物にするかが盛んに紹介されている。
虫はたいてい、豊かなタンパク質(40〜60%)と脂肪(10〜15%)を有している。成虫の中には、油で炒めたり煎ったりする前に硬い殻をむかなければならないものがあるが、幼虫なら若い虫の姿でも、あるいは芋虫の姿でも、そのまま調理することができる。


[ バッタ、コウロギ ]
虫が食材に選ばれるさいの重要な要素のひとつは、ある時期にその場所で捕獲しうる数量がどのくらいあるかだ。だから、食用に供される虫の種類は、たいてい数百万匹といった数で移動する虫が多い。移住相に変化したバッタは膨大な数で移住を行うため、捕獲が容易だ。アフリカでそのようなバッタはロクストあるいはロクスタナなどと呼ばれている。非移住相のバッタは草地などにおり、数ははるかに少ないが、多くの国で好まれている食材でもある。

ジンバブエでロクスタナは、虫がまだ活発でない夜明け前に捕獲される。そのあと沸騰した水でゆでてから、1〜2日間日干しにする。ロクスタナを調理するとき、羽と足は取り去り、水につけて戻す。そしてトマト、わけぎのたね、タレのついた破砕ピーナツと混ぜて料理する。
エチオピアでロクスタナは、砕いてからミルクと一緒に煮るか、それとも乾燥させてから挽いて粉にする。粉末になったロクスタナは植物油を混ぜ、焼いてケーキ状の食べ物にする。
またアフリカの多くの国では、バッタは煎ってから塩をふり、スナックとして食べる。これはタンパク質と脂肪をたっぷり含んだ食品だ。

数年前インドネシアを見舞ったコウロギブームでは、揚げコウロギ、煎りコウロギ、コウロギ・ペイエが生産され、いくつかの地方でおかずとして販売された。
バンコックではコウロギばかりか、特定種のゴキブリが成虫から卵にいたるまで、ある社会階層の人々の食べ物として常用されている。タイの子供たちは、炒め物にするために、その種類のゴキブリの卵を集めに回る。
パプア・ニューギニアでも、バッタやコウロギを煎ったり、炒めたりする。


[ シロアリ ]
熱帯地方では、シロアリがどこでも大量に獲れる。巣で捕らえたり、雨上がりの夜に灯りを使っておびき寄せたりして、容易に捕獲できる。巣から出たシロアリにはまだ羽があり、光や火にひかれてやってきて、その周りを飛び交う。光源の周囲の熱によって羽が取れ、身体は下に落ちる。羽のなくなったシロアリを捕獲して集めるのは楽だ。
体長が10〜12センチに達する女王シロアリは実においしい。かの女は決して巣から外に出ず、女王の部屋にずっといて、毎日数千個の卵を産む。シロアリの巣の土塊を崩せば、女王シロアリを捕獲できる。
羽付きシロアリは、油がたっぷりなので鍋で煎る。鍋の中で羽は自然に抜け落ち、風に吹かれて散っていく。その後で塩を振り、スナックにして食べる。
西アフリカでシロアリはパーム油で炒めるが、マラウィやジンバブエでは、少しだけ加熱してから乾燥させ、そして売る。


[ タガメ ]
熱帯の国々の中には、タガメを食用にするところがある。タイの大タガメであるマエン・ダ・ナはその味のユニークさで人々に好まれている。体長5〜6センチのものを特製の網で捕獲するのだ。蒸した後、海老醤に漬けてからすりつぶしてペースト状にする。タイではそれをマン・ダールと呼ぶ。それに小海老、ライム、にんにく、こしょうを混ぜ、ソースにしたり野菜サラダにかけたりする。
食用になるタガメの別の種は、ウオーター・ボートマンと呼ばれるものだ。成虫であれ卵であれ、この虫をよく食べるのはメキシコ人だが、アハヤカテと呼ばれる卵のほうが一般に好まれている。アハヤカテは生食したり、炒めたり、あるいは乾燥させたものと味付けした粉をまぜ、その粉でビスケットやケーキを作って、緑唐辛子で食べる。


[ 蝶の幼虫 ]
蝶の幼虫はさまざまな種類が食材になっている。バッタやシロアリと同様、群生している幼虫の方が捕まえやすいので好まれる。
タンザニアのいくつかの地方で、蚕が食材として用いられている。この種の蚕は群れをなして草地の藪の枝に黄色の固い繭をつくる。この幼虫は大量に集めて粉にし、保存食にする。アフリカ蚕の繭も食用にされている。
ザンビアのルウィング地方で群生している芋虫は、雨季の重要な天然食糧資源だ。数ヶ月にわたってそれらは、膨大な量の動物性タンパク質と良質のリボフラビン(ビタミンB2)を住民に供給する。大きくなった芋虫は、調理の前にまず内臓を取り出す。そして沸騰している少量の水に入れて、水がなくなるまでゆであげる。
ベンバ・イフィトボとベンバ・インプウェップメと呼ばれている二種類の芋虫は、毒性植物を食べるために、それをひとが食べれば中毒する。その毒を中和させるには、塩水を使って調理することが必要だ。虫をゆでてから塩とスパイスを混ぜ、ピーナツ、わけぎのたね、トマトを砕いてそれに加える。
芋虫をそのまま煮たり、煎ったりしても、スナックになる。内臓をきれいにし、ゆでたあとで乾燥させれば保存食になる。この乾燥芋虫は、ザンビアの田舎に限らず、都市部でもかなり高い値段がついて売られている。

南アジアでは、糸を取ったあとの蚕のさなぎを食べる。糸を取る前に繭は沸騰している水に浸されるので、繭の中のさなぎはゆであがる。そのさなぎを炒めてから瘤蜜柑の葉に混ぜるもよし、あるいはブロッコリやスパイスといっしょにしてスープにしてもよし、というところ。

太く短い芋虫形の甲虫の幼虫も多くの国で食べられている。タイでは、農村部で集められたこの幼虫をココナツミルクに漬け、カラッと油で揚げる。
椰子甲虫の幼虫も、西アフリカ、中央アフリカ、インド、南アジア、そしてインドネシアのいくつかの地方で食用にされている。まず頭を取り去ってから、野菜油で炒めるのだ。
パプア・ニューギニアではサゴ甲虫の幼虫を、バナナの葉に包んで焼いたり、ペペスにして食べるのが一般的だ。


ソース : 2002年4月8日付けコンパス
ライター: Sutrisno Koswara  ボゴール農業大学食品技術科教官
2002/08/05(Mon)


[ 第76回 ノスタルジーをメニューと店内に漂わせて ]
ウイリアム・リドル教授のジャカルタでのお好み食事処は、有名ホテルの豪華レストランではなく、ゴンダンディア通りの鉄道線路にほど近い小さなレストランだ。米オハイオ州コロンバスにあるオハイオ州立大学の著名なインドネシアニストが1962年に政党と種族主義に関する調査を行うため初めてインドネシアを訪れて以来、レストラン・トリオはかれのごひいきとなった。


「故スジャッモコ博士があのレストランを教えてくれた。」ビルのニックネームで呼ばれるリドル教授は懐古する。「シンプルな店だが、料理はおいしい。アヤム・ゴレン・ムンテガがわたしのお気に入りだよ。」
当時有数のインテリで、インドネシアに関する調査を行っていた外国人学生の多くがつきまとっていたスジャッモコ博士の友人や政治家たちがそこで漏らす政治に関する会話に、ビルはよく聞き入っていたものだ。「そのレストランは今でも昔のままのように思える。店内も、料理の味も。」友人やファミリーと今でもよくそこを訪れるビルはそう述べている。
いくつかの点でビルは正しい。既に50年以上たつテーブルや椅子がいまだに使われている。もう変色した皿がいまだに受け皿として出てくる。それは1950年代にジャカルタのアメリカ大使館が競売を行った米軍放出品なのだ。電車の轟音もいまだにある。1987年の鉄道高架プロジェクトのおかげで、レストラン・トリオの面積が半減した今になっても。
1947年の開店以来、店内の壁の色が変わったのは青色から緑色へのただ一度だけ。いまだに同じ色で塗り替えられている。仕切り壁は、表の木製のものを除いて全部1975年に恒久的なものに変えられた。壁に貼ってあるメニューも昔の綴りのまま。
多少とも変わったという印象を与えるものは店の表の竹すだれ。それですらやっと三十年にしかならない、という。二十年前に扇風機が取り付けられたとはいえ、店内の空気は暑い。一番変わったのはレストラン・トリオの周辺で、ますますゴミゴミするようになり暑苦しい。

このレストランは1960年代以降、政府高官たちの食事処のひとつとなった。今のオーナー、エフェンディ・スマルトノ55歳は、かつての都知事たちがしばしば立ち寄ったことを覚えている。エフェンディは広東出身の料理人ラム・カイチウの息子であり、タン・キムポー、タン・ルン、ラム・カイチウの三人がこの中華料理専門店を開いたのだ。今の高官たちはこのレストランの料理を副官に買ってくるよう言い付けているそうだ。

他にも多くのオランダ人がノスタルジーを求めて訪れる。「来られない年には、クリスマスカードやニューイヤーカードを送ってくるよ。」とエフェンディ。たいていの常連客はトリオとの付き合いがもう四十年にもなる。ビル・リドルの親戚であるサロモは、「トリオへ行くといつも、その店で孫からお爺さんお婆さんあげて一家で食事している光景を目にする。」と語っている。


現代冒険映画によく描かれるタイムトンネルほどロマンチックでなくとも、あちこちの町にある古いレストランの木製の扉をくぐるのは、多くの人々にとって過去への扉を開くことを意味している。店内には幾千もの思い出が漂っている。
味こそが決め手であり、そのクオリティへの配慮を怠ってはならないとはいっても、それが思い出の中に包み込まれていることも稀ではない。38歳のリタも、ジャカルタのフェテラン通りにあるラグサ・エス・イタリアを再訪するチャンスをよく探す。
「おとうさんが懐かしくなると、いつもここへ来るんです。アイスクリームやクロケッを食べに、よくここへ連れてきてくれたんですよ。クロケッの味も昔から変わってないわ。」と話すリタは11歳のときに父親を失った。
昔のラグサ・アイスクリームの味を知らない人にとって、その店の味は現代的なものとは少し違っており、そして溶けるのも早い。「でも、わたしは他のよりおいしいと思うし、防腐剤が入っていないから健康にも良いみたい。」しかしリタがこの店をたいそう好むのは、かの女の持っている思い出のせいだ。
「わたしは昔のままのこの籐いすに座って、アイスクリームを注文する前にサテアヤムを食べるのが好きだし、流し楽士が奏でる昔の歌を聞くのも好き。」とリタは数年前からこの店に現れるようになった声のよいプガメンのパ・ヘリと、三十年前からレストランの表で商いをしているサテ屋のことを話す。
1932年に開店したこのレストランでリタはまた、昔と同じテーブル係りのサービスを受ける。「わたし、パ・サヒディンを三十年前から知ってるのよ。」と全身白ずくめで誠心誠意お客に仕えている67歳のテーブル係りについても触れる。


スラバヤでは1930年に開店したレストラン・サンランディが、子供や孫やその他の親族を連れてアイスクリームを食べに今でもやってくる常連の顧客でにぎわっている。
インディヤ・スプラプティ夫人47歳は「恋人時代に学校帰りによくここでアイスクリームを食べたものだわ。」と現ご主人、ブディ・ラハルジョ医師との若かりし日々を回顧し、
「バンドンの大学に行っている子供が帰ってくると、サンランディへアイスクリームを買いに行くんですのよ。」とパジャジャラン大学生の長男オニ−のことをも物語る。インディヤ、ブディ夫妻は、「おいしくて安いから」と今でも往時を懐かしみながらアイスクリームを食べに行く。

そんな古いレストランで、感動するようなことが起こるのも稀ではない。年取った外国人観光客が大勢立ち寄るのもそうだが、ある日本人パイロットが、むかし勤務していたころよくアイスクリームを食べた懐かしいレストランを探してくれ、と息子に頼んだ。息子はジャカルタの友人にそれを探してくれ、と頼んだ。「結局、フェテラン通りにあるうちの店を探し当てて、そのパイロットは47年ぶりにここへ戻ってきたんです。とても感激したらしく、目がうるんでしまって・・・・・。」レストラン・ラグサのオーナー、ブントロ・クルニアワンとシアス・マワルニ夫人はそんなエピソードを物語る。


アイスクリームを売っている古いレストランは、たいてい似たようなキャラクターを持っているのだろう。スマランのプムダ通りで創業して64年たつレストラン・トコ・ウンでは、8メートルの高い天井に吊り下げられた二つの大型扇風機の風と一緒にノスタルジックな雰囲気が流れていく。
ジャカルタのフェテラン通りにあるイタリア・アイスクリーム・レストラン、ラグサの建物は、時の流れが風化をもたらしているが、スマランのレストラン・トコ・ウンはそれとは違い、ヨーロッパで19世紀にはやったユーゲンスティルの華麗な建築様式を今に伝えている。この店はノスタルジーに浸るのにかっこうの場所であり、スマラン名物とヨーロッパ料理のメニューに加えて37種のアイスクリームが売り物であるばかりか、スマランの町の歴史の一部になっている。

レストランの三代目オーナー、イエニー・メガプトリ夫人は古いお得意さんとの関係を維持するかたわら、新しい顧客をひきつけるためのセールスポイントのひとつとして、建物、店構え、そして店内のデコレーションを往時のまま保とうとしているようだ。
創業者ウン・チュンホッとその夫であるオランダ人高官の写真は、茶色に塗られた木の板を上張りにした白い壁に今も掲げられている。チークの椅子が周りを囲んでいる木製のテーブルは、既に百年以上の年期を誇っている。それらは一方の縁に沿って並べられ、対称の側には丈の低い籐のテーブルと椅子のセットが並べられている。ウン・チュンホッの娘で、イエニー・メガプトリの母であるシナルワティ・ウタマ夫人73歳は「昔、オランダ人の偉い人たちは、お茶を飲むのにその低いほうの椅子に好んで座り、大窓を通して外の往来を眺めながら、ルンピアやホランズ・ポフェルチェスを食べていたものよ。」と物語る。

パ・ウィウィッ50歳はその店で毎年、結婚記念日を家族と共に祝う。「恋人時代には、昔恋人だった今のわたしの妻と一緒に、よくあそこの席に座ったもんだ。」と窓際のテーブルを指差す。
「トゥティ・フルティやコルドン・ブル−を食べながらね。ここの味は独特だよ。今でも変わらない。ここへやって来るたびに、この店の昔の思い出を子供や家族や他の人によく話してやるんだ。」パ・ウィウィッは今年も結婚記念日のお祝いをトコ・ウンで行う予定にしている。この店が夫婦の歴史に関わっているため、ふたりには飽きるということがない。「店は昔から快適だし、思い出も一杯ある。料理の味も相変わらずで、変化していない。」

従業員はみんな「自分の家で働いているみたいだ。」と言い、コックも代々世襲されていく。そうしてかれらは常連客の名前をごひいきの料理と一緒に覚えてしまう。
従業員と店との家族的なつながりは、古いレストランでよく耳にする話だ。シアス・マワルニ夫人が話すように、レストラン・ラグサの従業員は何十年も勤めている人が多いし、中には代替わりするまでの半生をそこで送る人もいる。
「従業員は、雇い人でなく兄弟のように待遇します。でも、労働者として、そして人間としての権利や必要を満たしてあげることは忘れません。だから、パ・サヒディンやパ・モッ・ゼンのような人たちが、このレストランをまるで自分のもののように思ってくれるのはよく分かります。」と語るシアス夫人は、その店のおよそ五十人の従業員の中で勤続15年を超える人が何人もいる、と付け加える。


古いレストランのロマンチックな雰囲気は、大勢の中年や若者のカップルの再訪を促す。思い出を呼び起こす場所としてのみならず、倦怠感を癒す場所としても存在しているのだ。ヤニ−41歳と夫のディカ43歳がときどき二人だけで食事にやってくるのがその例だ。20年前、ふたりがジャカルタのチキニ地区にあるレストラン・アート&キュリオでよく一緒に夕食を取ったことをヤニ−はまだ覚えている。
「料理は舌にぴったり合うし、値段もお手ごろよ。ここのステーキは、肉の上に目玉焼きを丸くしたのが載っていて、アルミ皿で出てくる特徴的なものなの。」と語る。
1970年代、このレストランの客は野天の庭に置かれたテーブルで食事ができた。テーブルの上には、ろうそくや小さいランプのほの暗い灯りと、小さい花瓶に挿された一輪のばらが置かれていた。「ほとんど完璧なキャンドルライト・ディナー。ときどき電車の轟音付きだったわね。」チキニの鉄道線路からあまり遠くないレストランの昔をかの女は述懐する。
レストラン部分とは別に、その建物のもう一方の端にはアンチークや絵画の商品が飾られていた。残念なのはあの雰囲気がもう褪せてしまったこと。ほの暗いランプや従業員の制服はまだ同じでも、建物のテラスと庭は竹壁と石膏ボードで隔てられてしまった。四角いテーブルと四つの椅子は、丸テーブルと5〜6脚の椅子に変わっている。

同じことがバンドンのブラガ・プルマイでも起こった。1923年に開店したオランダ時代のレストランのメインダイニングは、二階が作られたために高い天井を特徴とするオランダ建築の印象が失われている。そびえるドア枠もなくなり、置かれている家具もモダンなものだ。二千平米の面積を持つこのレストランの内部構造は1963年にドラスチックに変えられた。その後たいした変化は起こっていない。特徴的な表テラスと広い傘のついたテーブルは維持されており、そして食事を楽しむ客と道路を往来する人を隔てる鉢植えの花や椰子の木も変わっていない。
この店の歴史に対する思い入れは、壁面の絵画や過去の姿を留めた12枚の白黒写真に凝縮されている。もともとこの建物は、1921年にボグライエン一族が建てたメゾン・ボグライエンだった。今でも多くの著名人がこのレストランの顧客になっている。モフタル・クスマアトマジャやヨープ・アフェ、若き日のBJハビビも、この店を愛顧した。
「今でも休暇でバンドンへ来ると、使用人がトン・プスを買いにやってきますよ。」
ブラガ・プルマイの従業員ティティンはそう話してくれた。


ソース : 2000年9月10日付けコンパス
2002/08/03(Sat)

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